ノストラダムス 3-50 トランプ大統領出現の予言だと噂されている詩だが。その5 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

昨日の続きである。
ノストラダムスの3-50の詩の解説の5回目だ。

大都市の共和政体は
大変な強情さで同意したがらないだろう、
王が喇叭手 〔らっぱしゅ〕 を通じて外に出るよう命じたことに。
壁に梯子、都市は後悔する。

(ノストラダムスの大事典の訳)

昨日は、この4行目の「壁に梯子」という言葉がヨシュア記の
>2:15そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。

という節を伏線にしている、と説明した。
だが、最後に、
>「壁に梯子」といっても、ノストラダムスはこの一節だけを伏線として使っているのではなくて、このヨシュア記のエリコ攻略というストーリー全体の預言的意味の中における象徴としてこの「壁に梯子」という語をここに置いたからだ。
これはそう単純ではなくて、かなり深くて大きな意味が隠されている。
だから、まず、ヨシュア記の中のエリコ攻略という話全体の預言的意味象徴的意味を理解した上で、そのストーリーの中でこの一節がどういう意味を持っているのか?
という位置付けを理解しなければならないのである。


と書いた。
まず、「ヨシュア記の中のエリコ攻略という話全体の預言的意味象徴的意味」を理解しなければならない、というのだ。
これは、私が1999年に徳間書店から出版した「ノストラダムスは知っていた」
という本で説明した。

ここでモーセ五書とヨシュア記の預言的意味が詳しく解説されている。


これが聖書の基礎であり、この基礎の上に聖書全体とノストラダムスが組み立てられているから、「預言を理解するため」には絶対に必要な知識だ。

詳細はこの本を読んで欲しいのだが、モーセ五書とヨシュア記の預言的意味を簡単に説明しよう。
まず、ヨシュアというのはイエスの予型である。
というのはヨシュアという名前は、イエス(ギリシャ名)のヘブライ名であり、同じ名前である。
これは、偶然ではなく、聖書の真の作者(天使)は、

「ヨシュア=イエスというつもりで読んでいきなさい」
という指示でこういう仕掛けにしたのである。

それで、ヨシュア記というのは、ヨシュア率いるイスラエル人のカナンの地の国盗り物語である。
その正当性の理由として、
「カナンの地というのは、もともと主がアブラハムに与えた土地である。
だから『約束の地』と言われている。
イスラエル人というのはアブラハムの子孫であり、その権利を引き継いでいる。
だが、イスラエル人はヤコブの子の代でカナンに飢饉が襲ったのでエジプトに移住した。
しかし、最初は優遇されていたのだが、次第にエジプト人に疎まれて奴隷の身分に落とされてしまった。
それを主が見かねてモーセに命じてエジプトから連れ出してカナンの地に戻させようとした。
出エジプトである。
これが預言的には元史の地球脱出を暗示しているのだが。


ところが、そのイスラエル人が留守にしている間にカナンの地にはカナン人が住み着いてしまい、主ではない他の神(バアル神)に仕えていた。
イスラエル人がカナンの地を取り戻すためには、このカナン人を追い出すか征服しなければならない。
モーセと出エジプト当時のイスラエル人は荒野で死に絶えたが、その子らが勇猛な『主の戦士」となり、シナイ奪還を実行したのだ。
シナイの荒野は宇宙の暗喩であり、イスラエル人は天使軍団(天使的未来人)の暗喩である。
そのイスラエル人を率いたモーセの後継者の指揮官がヨシュアである。

モーセ五書とヨシュア記というのは「古代ユダヤ史」という形式で書かれてあるが、これは史実ではない。
創作的預言書である。


まず、主がアブラハムに与えた約束の地、カナンの地というのは地球の暗喩である。
ヨシュア=イエスというのは、その天使軍団を率いる総司令官である。
とはいっても、これは象徴的人物というだけであり、あのナザレのイエスは天使軍団から派遣された一人の俳優だった。


では、ヨシュアに成敗されるカナン人というのは何の喩えなのか?
というと地球人の暗喩である。
我々地球人はヨシュア率いるイスラエル人(天使軍団)に征服され、成敗されるべきカナン人なのである。


地球人にはこの真意、意図が解らなかったから脳天気にのんびりとしていたのである。
クリスチャンにしても「これは神話か古代ユダヤ史だ」と思って、他人事として読んでいた。
たとえ、そこから「神の意図、神の計画」を汲み取ろうとしても「古代ユダヤ史」と思って読んでいる以上はどうしてもピントがズレて甘くなる。
低次元の解釈しかできない。


聖書というのは、天使が創作した作り話、創作的預言である。
では、天使はモーセ五書とヨシュア記で何を伝えたかったのだろうか?
というと、「天使の地球の所有権の正当性を地球人に宣告した」のである。
「地球は主が我々天使軍団に与えた惑星なんだから早く引き渡しなさい」
というのである。


新約聖書に書かれてある穏やかなイエスや天使、神のイメージに比べると非常に厳しい。
地球人からすると、
「えっ、何でそんな? それじゃあ悪魔軍団と変わらないじゃん」
と思うだろう。
だが、天使の本音はヨシュア記に書かれてあった。

では、カナン人は何故イスラエル人(天使軍団)に成敗されなければならなかったのか?
という理由は「主ではない異教の神、バアル神=サタンに仕えていたからだ」
というのだ。

つまり、悪魔軍団は異教の神、バアル神に喩えられていたのである。

だから、カナン人(地球人)もバアル信仰(悪魔崇拝)を捨てて、

「主(天使軍団)を自分達の主人として迎え入れて仕える」、とするならば、「救済してあげよう」、
というのである。


それでヨシュア記を予型というよりは、「天使軍団の地球奪還計画書」として置き換えて読んでいけばヨシュア記の真意と天使の意図が解る。
「あれは、遥か昔の古代ユダヤ史だから我々には関係無い」と思って読むから未来が解らないのだ。


さて、ヨシュア記を読むと、イスラエル軍によるカナン征服の過程だが、いくつかの町のケースがそれぞれ語られている。
事前に降伏した町の場合はその住民は助けられたが、

この「事前に降伏して町をイスラエル人に明け渡した」というのは預言的には、「期限=1999年までに天使軍団を呼んで受け入れた場合」というのを暗示している。


その場合は悪魔軍団の侵略に備えて準備すれば、悪魔軍団の侵入を防げる(かもしれない)からだ。
「明け渡す、降伏する」と「天使を迎え入れる」というのはかけ離れているように感じるだろうか、「地球の覇権を天使に委ねる」という意味で、預言的には同じなのだ。
しかし、今回のようにそれをしなかった場合は再臨=天使の地上復帰はできないので、地球人の全体救済もできない、となる。

さて、ヨシュア記にはいろいろなケースが想定されて書かれてあるが、最も重要で詳しく書かれてあるのがエリコの町のケースだ。
この「エリコ攻略」というのはヨシュア記の第6章に書かれてある。
だが、少し間に別の話を挟んでそれよりも前の第2章にエリコ攻略の前段階の話がある。
これが重要な意味を持っているのだ。

第2章に「ヨシュアはエリコに攻め込む前に、二人の斥候(スパイ)を送り込んでエリコの町を探らせた」
という話がある。
この二人の斥候とは、創世記で主がソドムを探らせるために遣わした二人の御使いと同じである。
そして、ヨハネの黙示録11章の「二人の証人」の予型である。
「二人の証人」の実際の働きはソドムとエリコで既に詳細に説明されていたのだった。

さて、私は前の本で「この二人の証人とはイエスとノストラダムスである」
と書いた。

当時はそう考えていたのだが、あれは間違っていた。


ヨハネの黙示録を考えても、あれを預言しているのはイエスなので、「二人の証人はこの書よりも後に出現する」
と考えるべきだろう。
ヨシュア記の場合でも、ヨシュア(イエス)は町の外にいて二人の斥候に命じたのだから、二人の斥候のうちのひとりが「ヨシュア=イエスだ」というのはおかしい。
これらの解釈だとイエスがダブってしまう。
どちらにしても、「二人の証人のうちの一人はヨシュア=イエスである」
という説は矛盾している。
つまり、二人の証人はイエスではなく別の人物である。


とはいっても、イエスと二人の証人の3人は別の時代にいるので「一人が生まれ変わって活動した」という可能性もあるが。
黙示録の二人の証人は「ノストラダムスとその後継者」だと考えるべきだろう。
エリコを探った二人の斥候はその予型である。

さて、ヨシュア記第2章の話ではエリコの王は、二人の斥候が町に入り込んで、しかもラハブの家に入った、と聞きつけた。
それで、部下達をラハブの家に送り、ラハブに「二人の斥候を差し出せ」と命じさせた。
つまり、「エリコの王はイスラエル軍に降伏して町を明け渡すのを拒んだ」
というのだ。


これは「地球人が期限=1999年までに天使を呼んで受け入れなかった=天使の地球復帰を拒んだ」
に置き換えられる。
この時点で、天使の地球復帰は失敗した=地球人の全体救済はできない、となった。
ノストラダムスの3-50だと
>大都市の共和政体は
大変な強情さで同意したがらないだろう、


と同じ意味だ。
だが、ラハブは既にそれを予測していて、二人の斥候を隠していて、王の部下に「その二人の人はもう町から出ましたよ」と嘘をついた。
王の部下はそれを信じて町から出て二人の斥候の後を追った。
それで夜になるとラハブは二人の斥候を町から逃がした。
ここに昨日取り上げた

2:15そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。

という一節がある。
更にラハブは二人の斥候に追っ手に捕まらないようにアドバイスした。
こうして二人の斥候は追っ手に捕まらないで無事にヨシュアの下に帰還した。

さて、ここまでの話で、ノストラダムスの「壁に梯子」というのが、ヨシュア記の


>2:15そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。

という聖句と関係している、これを伏線にしている、
とすると、これは、
「期限=1999年に天使は再臨=地球復帰に失敗した」
ということを暗示している、
と解釈できる。


というのは、もし、エリコの王が二人の斥候を歓待して、イスラエル軍に町を明け渡したならば、この「ラハブが壁に網(縄梯子)を垂らして二人の斥候を助けた」という話は無かったからだ。
エリコの王が町の明け渡しを拒んだからこの話があるのだ。
ノストラダムスがこの詩に「壁に梯子」と書いた、ということは、この詩は、
「天使の再臨=地上復帰は失敗した」という預言だ。

あるいは「失敗した場合を想定して作成した詩だ」
という意味になる。


さて、この詩が、
大都市の共和政体は
大変な強情さで同意したがらないだろう、
壁に梯子、都市は後悔する。


だけだったら、「これは再臨失敗について預言した詩だ」
だけでいいだろう。
ところが、この詩の3行目に
王が喇叭手 〔らっぱしゅ〕 を通じて外に出るよう命じたことに。

とある。
この行は「携挙=義人救出作戦を意味している」
と説明した。

この詩は再臨と携挙の二重預言になっているのだ。

そして、ヨシュア記の第2章では、「エリコの王はイスラエル軍に町を明け渡さなかった」というので、第6章に「イスラエル軍のエリコ攻略」の話があるのだが、

この両方に巧妙に携挙=義人救出の話が織り込まれているのだ。
その主役は二人の斥候を助けたラハブだ。

その話はまた次回に。