聖マラキの預言は外れていなかった。ノストラダムスの6-26と奇妙にリンク | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

悪魔軍団は地球人を征服するのだが、その方法は色々あるだろう。
だが、彼らは地球人が造った設備をそのまま利用しよう、と考えている。
だから、都市と設備がなるべく破壊されないで、そのまま残るような方法で、
と考えるだろう。
核爆弾なんかはとんでもない。
高高度核爆発も電子機器を破壊してしまうのであまり適切ではない。
となると、やはり、ウイルスをばら撒くのがいいか。
感染力、致死率、潜伏期間などが強すぎず、弱すぎず、程よいものを選ぶだろう。
で、その方法は?
というと上空から飛行機でばら撒く、というのがいいのではないか。
ケムトレイルというのが前兆なのだろうか?
勿論これは手先の地球人をマインドコントロールしてやらせるだろう。

 

さて、ノストラダムスの6-26の詩を再解釈していて思い出したのが、聖マラキの預言だ。

6-26の詩と聖マラキの預言が奇妙に一致していてリンクしているのだ。

 

聖マラキの預言については以下のページを参照。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E6%95%99%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80

 

これは、現教皇フランシスコが即位して「外れたのではないか?」
と考えられて、忘れ去れれていた。
111番 オリーブの栄光

が「前教皇のベネディクト16世に相当する」、というところまでは当たっていたが、番号がついている預言はここまでで、その後は、

 

ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう
ローマびとペトロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。

 

という文になっている。
これがフランシスコを指しているのではないか?
と言われたのだが、フランシスコは

「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座」しなかった。

通常のコンクラーベで選出されて、正式に着座して、今までも通常に教皇としての任務を果たしている
となると外れたのだろうか?

 

だが、ノストラダムスの6-26の
>ややましな人間のために四年のあいだ座が確保されよう
これがフランスコの記述だとすると、
>跡を継ぐのは色を好む男
これは悪魔軍団を指すことになる。

 

悪魔軍団は、地球人が極度の混乱に陥っている2018年の4月にキリスト(教皇)を装って降臨する。
これは聖マラキの
>ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう
と一致する。
つまり、
ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう
ローマびとペトロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。

 

で預言されていた教皇は、従来のローマ教皇を指していたのではなくて悪魔軍団を指していた、
と考えられる。


では、聖マラキの預言ではフランシスコについての予言はどこに行ったのだろうか?
フランシスコの予言が無いではないか。
だが、フランシスコは正式にローマ教皇として着座したではないか。
聖マラキは意図的にフランシスコを外したのだろうか?

 

ここで考えられる解答は、
「聖マラキが預言したのは、『着座した教皇ではなくて、その任務を果たして終えた教皇だけ』を記述した」
のではないか?
ということだ。


ローマ教皇は終身だから、普通は死をもって解任される。
ただし、前教皇のベネディクト16世は自らの意思で生前退位したが、これも一応任務を全うした、と考えていいだろう。

では、フランシスコの場合はどうか?


というと、2017年の後半から艱難が始まり、世界は大混乱に陥る。
通信、情報も遮断されるから、全世界の人達は教皇の消息も判らなくなる。
教皇どころではなくなるのだ。
ローマカトリック、教皇フランシスコはフェイドアウトして消息もうやむやのまま無くなってしまう。
つまり、フランシスコは教皇の任務を通常に終了できなかった。全うできなかった。

となる。


聖マラキが

「着座した教皇を預言した」のではなくて「任務を全うした教皇だけを預言した」

のだとしたら、フランシスコは除外された訳だ。
となると、聖マラキの預言は外れたのではなく、最後まで当たっていた、
となる。


人々がその意味、意図を理解できなかったから早合点して「外れた」と決めつけていた、
となる。

ノストラダムスの10-72「1999年7の月の詩」と同様のケースだ。

 

う~ん、なかなか奥深いなあ。
聖マラキの預言恐るべし。