ノストラダムス 6ー26 最後のローマ教皇の在位は4年間だから、やはり2017年を暗示、その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

一昨日からブログを再開した。
それは「携挙2017年説を支持する預言を見つけたので支持者の皆様に知らせよう」、と思ったからだ、
それはノストラダムスの6-26の詩なのだが、この詩は以前にも解説した。
このブログで2014年の8月に一度解説した詩である。
今からもう3年も前になる。

ところが、今になってこの以前の解説を読み直してみたら大分見解が変わっていたと気付いた。
私の基本的な説は変わらないのだが、特に携挙の予定期間についての見解が変わっているのだ。

 

以前は「携挙は2016年の春(にあるのではないか?)」と考えていた。
そうすると、そう考えていた時代では、この思考に囚われて、どうしても「この説に沿うように、この説に都合がいいように」と解釈してしまっていた。

しかし、2016年の春には携挙は無かった。
この説が外れた後では、その誘導、束縛から離れて解釈し直そう、となったのである。


だから、今の時点で古い記事を読み直すと「この部分はまずい、間違っているから削除するか、あるいは訂正すべきだ」という箇所がかなりあった。
今までも、「今となっては必要無い。無い方がよい」という記事はいくつか削除したのだが、

「全部削除するのはもったいない。良い部分もかなりある」という記事は残してある。
ただ、全部の記事を読み直して改訂するのは大変なのでそこまではしていないが、この詩、ノストラダムスの6-26の詩は重要であり、「残すべきだ」という部分もかなり多い。
それで、昨日、古い記事を改訂した。


また、最近になってからこのブログに訪問した人や、私の見解の変遷をよく理解できていない人は過去ログを読むと混乱すると思うので、

そういう方のために、今までの私の「携挙の予定期間に関する見解の変遷の経緯」について簡単にまとめてみる。

 

私は以前は「携挙は春、3月から6月までにある」と解釈していた。
そう解釈できる詩がいくつかあったからだ。
しかも、それは「2016年の春ではないか?」と考えていた。
だが、2016年の春に携挙は無かった。


そして、その後、2016年の10月前になって、ノストラダムスのアンリ二世への手紙の中に「十月にはなんらかの大規模な移動が起こります」という記述があったことを思い出した。
この「移動、トランスレーション」という語が「地球からの脱出、別の惑星への移住」、
すなわち「携挙」を意味しているのではないか?
と気づいた。


預言書に(ノストラダムスに)「携挙は春にある」、と「携挙は10月にある」と二通りに解釈できる記述があったのだ。
これは矛盾しているからどちらかを捨てて、どちらかを残さなければならない。
では「どちらが正しいのだろうか?」
と考えた時に、聖書に

新しい契約(新約)が出現したら旧い契約(旧約)は破棄される

という記述があるのを思い出し、預言書全体に渡って、
「同じ事項について預言している場合は、ラストの(最後の、最新の)預言を優先する」
という法則がある、と考えた。

こう考えると聖書とノストラダムスの預言にあった矛盾が解決できるのだ。

 

それで、ノストラダムスの場合でも「春に携挙」という詩よりもアンリ二世への手紙の「10月に携挙がある」という記述の方が後にあるので、「10月携挙説」の方を優先すべきだ、としたのである。


ところが、その後で更に、例の有名な「1999年7の月、の詩は、再臨と携挙の二重預言になっている」と解った。


この詩のナンバーは10-72なのでアンリ二世への手紙よりも後にある。
後にある、というのは、新しい預言だ、となるので、更にこの詩が優先される、となる。
この「7の月」はそのまま「7月」と「7番目の月=セプテンバ-=9月」の両方に取れる。
ここで、携挙に関して「7月説」と「9月説」が加わり、しかも、これがラストの預言だと思われるので、「携挙の月に関してはこれが最終結論なのではないか?」
と考えるに至ったのである。

 

そして、携挙の年についてだが、2016年説は外れたが、

どう考えても艱難と携挙が間近に迫っているとしか思えない。
悪魔軍団の我慢も限界に来ていると思えるからだ。


それで、1999年7の月の詩のナンバーは10-72である。
この数字をアナグラムと考えて並び替えると2017になる。
これによって、
ノストラダムスは「携挙の年は2017年である」
と暗示したのではないか?
と考えた。


それで、携挙の「7月説」と「9月説」を併せると、携挙は「2017年の7月」と「2017年の9月」の二つに絞られてきた。


以上が「携挙の時を推測してきた変遷の経緯」である。

 

しかし、「携挙2017年説」を支持する(と解釈できる)預言がまだ少ない。
「もう少しそういう預言はないのかなあ」
と思っていたところ、一昨日取り上げたノストラダムスの6-26の詩を思い出したのである。

 

この詩は、
「最後のローマ教皇の在位は4年間である~最後のローマ教皇が着任してから4年後(の年に)ローマカトリックは崩壊して悪魔軍団が地球の覇者として君臨する」
と解釈できた。


現教皇のフランシスコは2013年の3月に着任した。
その4年後は2017年の3月である。
とすると

「2017年のうちにローマカトリックは崩壊する~2017年に艱難が始まる~2017年に携挙がある」
と推測できる。
10-72~2017年説と一致するのだ。
以上を併せると「2017年の7月か9月に携挙がある(のではないか?」
という説に更に確信が持てるようになったのである。


それで、6-26の詩をもう一度、最新の見解から解釈し直そう、と考えて「その1」の記事を書いて一昨日にアップした次第である。

さて、6-26の詩を以前取り上げた時、この詩は2014年の8月12日から15日にかけて4回に渡り解説した。
私も今になって読み返してみると、「このままでいい」という部分と「これは今の見解とは違っているから改定するか削除した方がいい」という部分が混在している。

それで、私も6-26を解説した以前の記事について、不要な部分は削除して、「このままでよい」という部分は残して改訂した。


最新の見解によるこの詩の解説を進めよう。
まず、この詩の日本語訳をもう一度挙げる。

 

ノストラダムス 第6章26番
 
ややましな人間のために四年のあいだ座が確保されよう
跡を継ぐのは色を好む男
ラヴァンナ  ピーサ  ヴェローナが彼を支持するだろう
法王の十字架の値打ちを高めたいのだ

(山根和郎 訳)

 

四年間、いくらか立派な人物が御座を保つだろう。
生活の不品行な者が後に続くだろう。
ラヴェンナ、ピサ、ヴェローナは支持するだろう、
十字架を掲げたいという教皇の熱望を。

(ノストラダムスの大事典の訳)

 

「その1」では主に1行目と2行目を解説した。
1行目と2行目は、
>「ある教皇はいくらかましな人物だが、その在位は4年間である。
そして、その跡を継ぐのは好色で生活の不品行な者である」

と書かれてあるから、予言的に「文字通りに」受け取ればただそれだけだ。


ノストラダムスは彼の時代よりも未来に「こういう二人の教皇が出現するだろう」
と予言した。
「だから21世紀の今となっては、この二人の教皇は既に出現していたのかもしれない」
と考えた研究家はローマ教皇の歴史を調べて、これに当てはまりそうな二人の教皇を探した。
ノストラダムスの大事典のこの詩についての解説のページでは、その「解釈史」が纏められている。


http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/2090.html

 

このサイトの主催者は「ノストラダムスの作品は予言ではなくて文学的作品だ」と考えているのだが、ノストラダムスに関する資料を徹底的に集めよう、という熱意からサイトを運営している。


「予言的解釈」を支持している方はこれで満足なのだろうが、私はこのような予言的解釈とは全然次元が違う預言的思考で詩を解釈しようとしている。


それで、「その1」では、主に1、2行目を
>「最後の教皇の在位期間は4年間である」
「最後の教皇が4年間在位した後に悪魔軍団がやって来て、教皇の地位に就く」
ということを意味している、と解釈できる。

 

とした。
これに関しては、以前の古い記事の「その2」も参照していただきたい。


http://ameblo.jp/kkokrjp/entry-11909198050.html

 

ここでこう書いた。

>さて、1行目の
ややましな人間のために四年のあいだ座が確保されよう
四年間、いくらか立派な人物が御座を保つだろう。

は「現法王フランシスコについて述べている」、と考えたのだが、
 誰と比べて、「ややましな人間、いくらか立派な人物」なのか?
というと「前任者と比べて」というのではない。
それは、2行目に書かれてある「色を好む男、生活の不品行な者」に比べたら「ややましだ」というのである。


とは言っても、法王フランシスコの後を継ぐのは「一人の男、一人の法王」ではない。

この法王フランシスコの後を継ぐ「色を好む男、生活の不品行な者」というのは悪魔軍団(悪魔的未来人)を指している。
この時点(2014年の8月)ではこう考えた。


これが「間違っている。見当外れだ」とは言えないのだが、今になって、1、2行目を読み返すと、「これとは少し違うのではないか?」
という考えが起きてきた。


ノストラダムスはもっと違う意図、より深い意図を持ってこの行を書いたのではないか?
と思えてきたのである。

それは、1行目の「ややましな教皇、いくらか立派な人物」というのは現教皇フランシスだけを指しているのではないのではないか?
と思えてきたのである。


「ややましな、いくらか立派な」というのは決して誉め言葉ではない。
「あの酷い冷酷な悪魔軍団に比べたら少しはましだ」
という意味なので確かにそうなのだが、最後の教皇(=フランシスコ)についてもどちらかというとけなした言い方、貶めた言い方だ。


実際の教皇フランシスの性格、人格がどうかはあまりよく知らないが、「酷い悪評だ」とも思えない。
「非常に優れた立派な教皇だ」という評判もあまり聞かないが、まあ、普通か、少なくても前任者よりもましなのではないか?と思える。

 

それに、ノストラダムスが、「現教皇フランシスコ(だけ)についてけなす、貶める、低評価を下した」というのもあまり考えられない。
どうもおかしい。不自然だ。
預言的に考えると、「ある一人の教皇に対して低評価をする、個人攻撃をする」というのは考え難い。

預言というのは「全人類の運命に関係していること」しか預言していないはずだ。


それで、私が感じたのは、この「ややましな、いくらか立派な」という低評価は現教皇フランシス(だけ)に対しての評価ではなくて、「ローマ教皇全体について、ローマ教皇(ローマカトリック)そのものへの評価ではないか?」
と感じたのだ。

つまり、ノストラダムスはローマカトリックという組織全体を評価していない。

「ローマカトリック、ローマ教皇なんてものは大したことない。彼らは偉そうにしているが、実際は無能の偽善者だ」
と言いたかった、そう仄めかしたかったのではないか?
というのがこの表現から感じられたのだ。

 

それは何故か?というと、
「ローマカトリック、ローマ教皇というのは、自分達がイエスから権能を引き継いだイエスの正規の代理人だと自負している。
そして、そう信者に刷り込んでいる。
だからあんなに偉そうにしている。

しかし、それは大きな過ち、誤解であり、嘘だ。
彼らはイエスの正規の代理人ではないし、何の権能も持っていない」
とノストラダムスは思っていたからだ。


何故そうなのか?
についてはこのブログでも解説した。

福音書に「イエスは天の国の鍵」を(弟子の)ペテロに与えた」という記述がある。
「天の国の鍵」というのは「イエスが持っている権能」の象徴である。


そして、ローマ教皇は、
「自分達をその弟子のペテロの後継者である、とみなし、その天の国の鍵(権能)を代々引き継いでる」、
と主張している。
これをローマ教皇、ローマカトリックは自分達の権威の根拠としている。
つまり、自分達こそ「イエスの正規の代理人である」というのだ。
これはカトリックの信者は全員そう思っている。

 

しかし、ノストラダムスはそうは考えていなかった。
これは私の前の本でも説明したが、ノストラダムスは、
「イエスが天の国の鍵を渡したペテロとは実は私、ノストラダムスだったんだよ」
と考えていたのである。
つまり、「イエスから権能を引き継いだ正規の代理人はこの私、ノストラダムスだ」
というのだ。


そうすると、ローマカトリック、ローマ教皇はイエスの正規の代理人ではない。何の権能も持っていない「ただの人」になる。
「ローマ教皇がそう主張しているのは嘘だ、彼らは信者に嘘を刷り込まして金を巻き上げて偉そうにふんぞり返っている偽善者だ」、となる。
これでは決して立派な集団、尊敬すべき人とは言えない。
「酷い嘘つきだ。詐欺師の集団だ」となる。

 

つまり、ノストラダムがこの詩で
>ややましな人間のために(四年のあいだ)座が確保されよう
>(四年間、)いくらか立派な人物が御座を保つだろう。

 

と書いたのは実は、

「ある一人の教皇」を指していたのではなく「全てのローマ教皇」に向けての言葉だったのだ。
「四年のあいだ」という文言を取り除けばより解りやすいだろう。


つまり、ノストラダムスはここでそれを仄めかしていた、本心を暴露していた(のではないか?)
と考えられるのだ。

 

では、何故そんなに回りくどい書き方をしたのか?
というと、彼の時代を考えれば当然だ。
ノストラダムスが生きた時代のフランスはキリスト教、カトリックが支配していた。
そこで少しでもローマ教皇やカトリックを批判したら直ぐに捕まって宗教裁判に掛けられて死刑だろう。
だから、こんなことは心の中では思っていても絶対に口には出せない。
詩にも直接書けない。
しかし、彼はそれを伝えたかった。
それで、「暗喩で仄めかす」という手法でそれを伝えたのである。

 

「未来において少しはましな教皇が4年間在位した後で、好色な人物が教皇の座に就く」
と書けば、カトリックも、
「まあ、未来には無数の教皇が出るだろうから、中には好色な者が教皇になることくらいあるだろう」
と軽く考えて見逃すだろう、と見越したのである。
さすがに「凶悪な、狂暴な」と表現するとまずいかもしれないが「好色な、淫乱な、女たらしのすけべな」というくらいなら「そういう教皇が出てもおかしくない」と思うだろうから、見逃されるだろう、と考えた訳だ。


事実、ノストラダムス当時もそれ以降もカトリック教会はこの詩に対して何のクレームもつけなかった。

以上が私がこの詩の1、2行目について感じたことだ。
うがった見方かもしれないが、ノストラダムスに同調するとこういう言葉が浮かんでくる。

 

 

さて、これは予告になるが、
携挙に7月説と9月説がある、と書いた。
「どっちかに絞れないのかな?」
とは考えていたのだが、「預言的に言うとこっちかな?」
という考えが思い浮かんだ。


「4月に救いに来る」という詩があったが、これは天使の携挙ではなくて、悪魔軍団の降臨を指しているのではないか?と今になっては思う。
そして、「9か月間大飢饉がある」という詩があった。
艱難期間は9か月間続くのだろうか?


とすると、ここから逆算すると艱難の開始時期~携挙の予定時が推測される。
そうすると7月携挙、8月艱難開始説の方が正しいのではないか、

と考えられる。