ノストラダムス 10-91、1999年に地球人は自分達の主人に悪魔軍団を選んだ。その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

昨日の続きである。
ノストラダムスの第10巻の91番の詩を考えているが、この詩についてもっとしっかりと考察していこう。
まず、原典はこうだ。

 

Clerge' Romain l'an mil six cens & neuf,
Au chef de l'an feras election:
D'vn gris & noir de la Compagnie yssu,
Qui onc ne fut si maling.

 

日本語訳であるが、

 

一六0九年 ローマの教会
その年の初頭に選挙を行うだろう
灰色と黒色の者ひとりカンパーニアより登場する
この男ほど腹黒い人間は見たことがない

(山根和郎 訳)

 

と、

 

ローマの聖職者よ、千六百と九の年、
その年の初めに、汝らは選挙を行うだろう。
仲間から出た灰色と黒の中から、
かつてないほどの悪しき者が。

(ノストラダムスの大事典の訳)
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/198.html

 

があるが、後者で考えていこう。
このページに従来の研究者(信奉者)の解釈が纏められているので参考に読んでいただきたい。
ただし、このサイトの主催者はビリーバーではなく、「資料として集めて提供しているだけ」である。

 

さて、この詩を文字通りに受け取って予言的に解釈すると、
「1609年の初頭にローマ教皇選出の選挙が行われる。
しかし、そこで選出された教皇はかつてないほどの悪人だった」

となる。

更に、山根和郎氏の訳の3行目

灰色と黒色の者ひとりカンパーニアより登場する
 

からだと、

「その選出された新教皇はカンパーニアの出身なのではないか?」

と思える。

カンパーニアとはイタリアの南部、ナポリがある州の地名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E

 

だが、ノストラダムスの大事典では、3行目は、

仲間から出た灰色と黒の中から、

 

と訳されていて、カンパーニアが出てこない。

「あれっ、どうなっているの?」

と思うが、これは原典の「Compagnie」

 

という語をどう受け取るか?による。

この辺にも何か仕掛けがあるのでは?

「ノストラダムスは何かを仕掛けたのではないか?」

と思われるが、それは後で考えよう。

 

まあ、それはともかく、

「1609年の初頭にローマ教皇選出の選挙が行われる。
しかし、そこで選出された教皇はかつてないほどの悪人だった」

 

という解釈、
これは研究者でなくても誰でもできる。
解釈という程でもなく、「ただそのまま読んだだけ」、である。


だが、実際には1609年にはローマ教皇選出の選挙(コンクラーベ)は行われなかった。
普通なら、「じゃあ、この予言は外れたんだ。ノストラダムスだって外すこともあるさ」
で済ませてしまうところだが、信奉者達は「外れた」と認めたくなくていろいろな説、解釈を出している。


だが、ここに出されている研究者達(信奉者)は全て「予言的思考しかできない人達」である。
つまり、「この詩は(この詩に限らず、全てのノストラダムスの詩は)何か特定の事件を予言したものだ」という思考の範囲内で解釈している。
だが、何度も書いているように、

「ノストラダムスの作品は予言ではなくて預言である」。
予言的解釈は、もともと最初からノストラダムスの真意、意図から外れたところでトンチンカンな解釈を披露しているに過ぎない。


では、予言ではなくて、預言として考えてノストラダムスがこの詩に込めた真意、意図は何だったのだろうか?


それを考えていこう。

さて、先日の記事の最後に、


>ところが、「詩のナンバーにも意味がある(場合がある)」と解ったばかりなので、この詩を読んだ時に直ぐに詩のナンバーも見た。
それで、直ぐに、「ああ、そうだったのか。そういう仕掛けになっていたのか」
と解ったのである。

 

と書いたが、これを説明しよう。


この詩の1行目は、
ローマの聖職者よ、千六百と九の年、

だから1609(年) という数字が書かれてある。
昨日書いたように、「6と9は置換できる」という法則から、以前、私は、

「この1609年というのは1999年を暗示しているのではないか?」
と考えたのだが、6を9に変換したとしても9が二つしかないので、このままでは1999年へと導けない。


それで、解説するのを諦めていたのだが、

「詩のナンバーにも意味がある(場合がある)」

という思考を導入してみよう。


この詩のナンバーは、10巻の91番、10-91だ。
10巻までを正規の作品と考えると終わり近くの詩、最後から9番目の詩である。

それで、ナンバーも含めて、この詩に出て来る数字を挙げてみると、

1091、1609 となる。


更に、6を9に変換すると、
1091、1909
ここには、0と1と9しかない。
それで、この数列から0と1を除いてみよう。
すると、1999 が残る。
「う~ん、1999年だ」
となる。


となると、ノストラダムスはこの手法で「1999~1999年を暗示したのではないか?」
という思いが強くなってくる。
これは、以前思った「1行目の1609年は1999年を暗示しているのではないか?」
よりも遥かに確信が持てる。
以前は詩のナンバーにまで気が回らなかったのである。

 

つまり、ノストラダムスは、
「詩のナンバーも考慮して、このナンバーにこの詩を置いて、
詩だけだと9が二つだか、ナンバーにも9があるので、詩とナンバーを併せると9が三つになり、そこから1999年を暗示した」
というテクニックを使った、と推測されるのである。

 

とは言っても、懐疑的な人からは、
「じゃあ、0、1、1,0はどこに行ったんだ?
その数列から『0と1を取り除いてもよい』なんて法則はどこに書かれてあるんだ?
どこにも書かれてないだろ。
1091、1909、から1999(年)を導き出す、というのは乱暴だよ。学術的な根拠はどこにも無い。強引過ぎる自分勝手なトンデモ説だ。妄想に過ぎない」
と言うだろう。


そう言われてしまえば確かにその通りで反論はできない。
だが、「ノストラダムスの作品は暗号、比喩、暗喩、象徴、暗示で書かれてある」
というのは誰もが認めるところだろう。

彼の詩はカトラン、四行詩という短くて制約の多い形式で書かれてある。
凝縮されて書かれてあるから、ノストラダムスが「詩のナンバーも利用して暗示しよう」
と考えたというのは充分にあり得る。
それに「暗示した」というのだから、「1091、1909、という数列から1999が連想される」というのでいいのだ。
「連想される~暗示した」でいいと思う。


ノストラダムスの作品というのは、非常にユーモアに富んだ、遊び心に溢れた手法で書かれてあるから、あまり堅苦しく考えなくてもよい。

「認めない、認めたくない」という人はそれで構わない。


私の説に懐疑的な人、敵対者は、私が何を書いても反論するだろうから議論しても無駄である。
私の説を支持してくれる人だけを相手にして、そういう人が確信を持ってくれればよい。

 

では、「この詩は1999年についての預言だ」と思って、この詩を解釈していこう。
1999年というのは、イエスの再臨の予定時=天使軍団の地球復帰の期限である。
まず、1行目、
ローマの聖職者よ、千六百と九の年、

これを考えよう。


「千六百と九の年」は詩のナンバーと併せて「1999年を暗示している」と考える。
では、「 ローマの聖職者よ」とはどういう意味だろうか?


何でも文字通りに受け取る原理主義者は、
「ローマって、あのイタリアの首都のローマだろ。ローマって書かれてあるんだから、『あのローマを指している』でいいじゃん。
それで、『ローマの聖職者』というんだから、バチカン、ローマカトリックかローマ教皇を指しているんだろ」

としか考えない。
だが、ノストラダムスの詩は比喩、暗喩を多用した象徴技法を駆使して暗示されている。
だから、この「ローマ」もただ、あのローマを指しているのではなくて、もっと深い象徴的意味が込められているに違いない。
そのヒントは聖書に書かれてあるはずだ。


「ローマ」の場合、ヨハネの黙示録で、その象徴的意味が明らかにされている。

とは言っても、はっきりと「ローマ」と出て来る訳ではない。

捻って、隠されて暗示されているのだ。
ヨハネの黙示録に「バビロンの大淫婦」というのが出てくるが、その説明のところに次の記述がある。

 

 17:9ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。

 

ローマは「七つの丘(山)の上に築かれた町」と言われているから、バビロンの大淫婦~ローマと転換できる。

ここに、知恵のある心が必要である

 

と書かれてある。

「ここに謎が秘められているから、賢く考えて謎を解きなさい」という指示だ。

 

う~ん、なかなか親切だ。
更にこの少し後に次の記述がある。

 

17:15御使はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。

 

バビロンの大淫婦というのは「あらゆる民族、群衆、国民、国語」の暗喩である。
だから、ここまでの記述で、

「ローマ~バビロンの大淫婦~あらゆる民族、群衆、国民、国語~全地球人」、と転換(連想)していって、結局、
「ローマとは全地球人の暗喩である」と解る。

 

だが、それだけではない、ヨハネの黙示録にはこの前後に「バビロンの大淫婦についての描写」の記述があるからだ。
この少し前に「バビロンの大淫婦」についての説明がされている。

 

17:2地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。

 

17:4この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、

 

ここでは、バビロンの大淫婦については良く書かれていない。
「彼女は贅沢三昧にふけり、酒に酔いしれて淫らな行為にふけっていた」
と書かれてある。
ということは、ローマ~バビロンの大淫婦~全地球人とはいっても、これは特に、
「地球の資源を無駄に使い、贅沢、放蕩、虚飾にまみれた生活をしている浮かれ狂った地球人」
を指している、と考えられる。


これは、1999年当時だけでなく、2016年当時の「今の地球人」にも当てはまる。
「いや、今の地球人全部がそんなに贅沢な生活ができている訳ではない。貧しい人の方が多いし、それに、『浮かれ狂った』って、そこまで酷くはないんじゃないか?」
と反論するかもしれないが、これは、あくまでも、
「ノストラダムス=預言の真の作者=天使軍団、の視点から見て評価、判定した描写」
である。
そう考えると「確かにその通りだ」としか思えない。

 

ただ、この他の記述から、この「バビロンの大淫婦」とは悪魔軍団、悪魔軍団が支配している地球~悪魔帝国を指している、とも解釈できるが、
この詩を「1999年の時点での預言」と考えると、悪魔帝国はまだ出現していないのだから、ひとまず、
ローマとは、「地球の資源を無駄に使い、放蕩、虚飾にまみれた生活をしている浮かれ狂った地球人」
の暗喩である、と考えていいだろう。


だが、この詩の三行目と四行目を読むと、

仲間から出た灰色と黒の中から、
かつてないほどの悪しき者が。

 

とある。

これは悪魔軍団(悪魔的未来人)についての記述である。
これらの記述で天使とノストラダムスは悪魔軍団と悪魔帝国に対して、激しく非難、弾劾し、憎悪の感情を顕わにしている。

 

とすると、
「じゃあ、この詩は、1999年に悪魔軍団が出現する、侵入してくる、
という予言なのか?
でも、1999年にはまだ悪魔軍団は侵入してこなかった。
やっぱり、この詩も『外れた』んじゃないの?」

と思うかもしれない。


だが、慌てないでいただきたい。
それは早とちりだ。
というのは、この詩は「1999年に悪魔軍団が侵入してくる」
という意味の預言ではないからだ。