クリスチャンが、「聖書の中で最も重視する記述」はどこか? その1 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

聖書はキリスト教の聖典である。
聖書といっても旧約聖書と新約聖書があるが、どちらも膨大な量がある書物でひと通り読むだけでも大変な努力と時間を要する。
だが、クリスチャンにとっては、「どの箇所、どの記述も均一に重要か?」
と聞かれたらそうではないだろう。


勿論、聖職者や教会が、聖書の中の特定の書、あるいはその書の中のある部分、節に対して優劣や重要性をランク付けしている訳ではない。
だが、信者には暗黙のうちに「よく読んでいる部分、特に親しんでいる部分」というのはある。
ユダヤ教徒にとっては旧約聖書、その中でも特にトーラーと呼ばれているモーセ五書は絶対である。
だが、キリスト教徒にとっては、旧約聖書というのは「新約聖書を準備する為の土台、基礎となる書」という位置付けであり、旧約聖書を無視する訳ではないが、「新約聖書をより良く理解する為の基礎となる書」という見地で読んでいる。
だから、キリスト教徒では、どうしても新約聖書の方を重視するのだが、「では、その中ではどの書が?」
と聞かれたらやはり四っつの福音者が基礎、基本となるのだろう。

では、「その四福音書の中ではどの書が?」
という問題があるが、これはいろいろ複雑なのでここでは置いておく。
それでひとまずマタイによる福音書を例に取って考えよう。
「この中でどの記述、どの節が?」
と聞かれたらクリスチャンの多くはどの節を挙げるだろうか?
これも人によって違い「どこが最も重要か?なんてランク付けはできないし、そんなことを考える自体不謹慎だ」
と言われるかもしれないが、

堅苦しく考えないとしたら、まず、「イエス自身が語った部分」ではないか?と思われる。
やはり、これは何と言っても重みがある。

キリスト教はイエスを主、神の子としているのでその「イエス自身が言った」、とされる記述は重みがある。

だが、イエス自身が語った、とされている記述、そういう形式で書かれてある部分はかなりあり、福音書全体に散在している。
たとえ話もいくつも載っている。
では、その中であえて「最も重要な記述、節はどこか?」
と聞かれたら、「ズバリ、それはマタイだと24節だ」
と言わざるを得ない。
先日解説してきた箇所も24節の中にある。
24節の中にはこのブログでもさんざん取り上げて解説した記述も多く含まれているが、もう一度マタイによる福音書の24節全体を載せる。


24:1イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
24:2そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

24:15預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
24:16そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
24:17屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
24:18畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
24:19その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
24:20あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。

24:23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
24:24にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
24:25見よ、あなたがたに前もって言っておく。
24:26だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
24:27ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
24:28死体のあるところには、はげたかが集まるものである。

24:29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
24:33そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
24:34よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
24:35天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
24:36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
24:43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
24:44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
24:45主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
24:46主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
24:47よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 24:48もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
24:49その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
24:50その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
24:51彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。



これは多くの人達、多くのクリスチャンが読むことを想定して書かれてあるから、それ程難解には書かれていない(ように思われる)。
だが、難しくはないようには思えても、多くの技法が施されて書かれてあるのである。
ヨハネの黙示録ほどには暗喩、象徴は多用されていない(ように思われる)が、聖書全体に伏線が隠されている。
また、時系列、歴史も錯綜して書かれてある。

では、「何故24節が最も重要なのか?」
と聞かれたら、24節の冒頭に次の言葉があるからだ。


24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。


そもそもクリスチャンが何故聖書を読むのか?
というと「救済されたいから=この世の終わりの真相を知りたいからだ」と言える。
何しろ、聖書では、「いつかこの世の終わり、終末というのが来て、全ての人がその行いによって裁かれて天国か地獄かに振り分けられる」
と書かれてある。
いわゆる最後の審判の思想だ。
そして、その時に、イエスの再臨や義人の救出(携挙)があるという。
つまり、この世の終わり、再臨、携挙、審判というものはキリスト教徒にとって最大の関心事である。
それについて質問されてイエスが答えた、というのだから、「一番重要な箇所だ」と言えるだろう。


ただ、24節全体は長いし、既に解説した箇所も多いので、今回は「まだ取り上げていなかった記述のなかで気になった記述」を取り上げて考えていこう。


24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。


ここに「あかし」とある。漢字で書くと証、証しだ。
これは「証明」と考えても良いが、「預言(聖書)の真意を公表する」という意味ではないか、と考えられる。
「全世界に宣べ伝えられるであろう」とあるが、これは、「インターネットで真意が公表される」と考えられる。
本で出版される、というのは言葉の問題もあるし、普通はその国の中だけで出版される。
ところがインターネットで発表された場合は瞬時に全世界に発表されるのである。
勿論、言語の問題があるから、その言語を理解できる人でないと意味は解らないが、その言語が理解できる人ならば世界のどこにいてもその情報を知ることができる。


ただし、これは、「最後(終末)の前にインターネットで預言(聖書)の真意が世界中に公表される」
という事実、計画を述べただけであって、それがどういう反響を呼ぶのか?
ということとは別問題である。
一方的に「そういう計画になっている」、と告知したのだろう。

イエスがこの言葉を述べてから約2000年後に終末が来るのだから、イエスとしても(天使としても)この時点では結果は判らないのである。


24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。


この艱難とは悪魔軍団による疫病と大飢饉の艱難である。
これは2016年の7月から始まる。
22節は以前にも説明したと思うが、

「選民(義人)の為に艱難が起きるまでの期間が縮められる」、とは、すなわち、「艱難が起きる前に義人を救い出す=艱難の前に携挙を行う」、
という意味だと解釈できる。

この言葉は艱難前携挙説の根拠になるはずなのだが、艱難後携挙説を支持する人はこの言葉を無視している。
というよりも時空と歴史の変遷を理解できないから、この言葉の真意を理解できないのだろう。


24:27ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
24:28死体のあるところには、はげたかが集まるものである。


27節に限らず24章に出てくる「人の子」というのは、従来の解釈では、「メシア、再臨のイエスを指している」と考えられている。
ここに根本的な勘違いがあった。
実際にはイエスは、人の子を「地球人の子孫=未来人」という意味で使っていたのだ。
実は、それが27節で証明される。

24:27ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。


ノストラダムスでも共通していたが、象徴学においては、「東は未来を、西は過去を」象徴している。
だから「東から西にひらめき渡るように」
というのは、東=未来から西=過去に、(タイムマシンで)やって来た。
ということを暗示しているのである。


普通は「東から西に」とわざわざ言わなくてもよいのに」と思う。
あるいは「東から西に」というのにどういう意味があるのかは解らないだろう。
しかし、イエスはこういうちょっとした言い回しにも「未来から過去へやって来ている」という意味を込めて暗示していたのである。


それに、「いなずま、雷」というのは、ノストラダムスにも出てきたが、「神の怒り、天罰」の象徴なのである。

だから、

「いなずまが東から西にひらめき渡るように」


というのは、「悪魔的未来人=悪魔軍団が未来から過去にやってきて、天罰を与える」

という意味になる。


また、従来の「人の子=メシア=再臨のイエス」という解釈では、27節と28節の関係を説明できないのではないだろうか?
イエスの再臨というのは待望されていた喜ばしいものである。
それなのに、何で

24:28死体のあるところには、はげたかが集まるものである。


という不吉な言葉が続くのだろうか?
信者もこれには不審を持っていて理解できなかったのではないだろうか?
文脈を考えると、これは、「人の子(再臨のイエス)と死体に群がるはげたかを同一視している」
としか思えない。
つまり、この「人の子」とは再臨のイエスを指してはいないのである。
「死体」というのは「永遠の命を貰えなかった者=不義なる者」を指している。
そして「死体に群がるはげたか」とは悪魔軍団を指している。
つまり、27節と28節は、

「天使軍団に救済を求めなかった愚かな地球人は悪魔軍団の餌食になる」
という意味なのである。

27節と28節の文脈を考えると、人の子=地球人の子孫のうちの悪魔的未来人のグループ=悪魔軍団、と考えるとすっきりする。
従来の、人の子=メシア=再臨のイエス、としか考えないのでは、何故、唐突に28節の言葉が続くのかが説明できない。
聖職者や教会はこの矛盾を説明しているのだろうか?
24節に出てくる「人の子」を全て「メシア、再臨のイエス」と解釈して、それで全体を押し通そうとしてきた思考自体に無理があり、ここに勘違いの原因があったのである。