ヨハネによる福音書冒頭の言(ことば、ロゴス)は神の霊であり、キリストではない。その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

昨日はヨハネによる福音書の冒頭と創世記の冒頭の類似性について説明した。


私は、ヨハネによる福音書の冒頭の記述を読んで、直ぐに
「言(ことば)って、意識とか想念って意味だろうから、神(の霊)を指しているんじゃないの?
宇宙意識=神の霊がこの宇宙、万物を創った、と言うのだから、創世記の冒頭と同じじゃん。」
と思った。

聖書の真の作者である天使は、
「創世記の冒頭にも書いたんだけど、新約聖書にもちょっと書き方を変えて同様な意味のことを書いておくか」
という意図でこう書いたのだと思った。


この解釈は別に難しくは無い、というか、一般の人でもこう解釈するのが普通で、わざわざ特記するほどのものでもないだろう、と思っていた。

ところが、このヨハネの福音書の冒頭の記述を調べていくと、(私にとっては)思いがけない問題が出てきたのである。

それは、昨日


>ロゴスの意味を調べると、

ロゴス【logos】
①言葉。意味。論理。
②言葉を通して表された理性。言語・思想・理論など。
③宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。
④キリスト教で,神の言葉。また,それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。


と載っている。
としたうちの4番目、
④キリスト教で,神の言葉。また,それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。

の項目である。

私も勿論、三位一体というのは知っている。
「父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊は一体である」
というキリスト教の根本教義である。
しかし、私としてはこの三位一体についてはあまり関心が無かった。
「キリスト教、教会がそう考えるのは別にいいが、三位一体と終末の救済とは関係が無いのではないか?」
と思っていたからだ。


そして、不思議に思ったのは、
「このヨハネによる福音書の冒頭のロゴスという言葉の解説に、何故、三位一体とキリストが出てくるのだろうか?」
ということだ。


「ここは、神の霊がこの宇宙を創った、ということを述べているのであって、これのどこにキリストが関係しているのだろうか?
父=子、つまり、神=キリストとしたら、キリスト(あのナザレのイエス)がこの宇宙を創った、というのだろうか?
そんなことは有り得ない。
どう考えてもおかしいじゃないか」
と思ったのである。


それで、ウィキペディアでロゴスを調べると


>これはキリストについて述べたものと解され、三位一体の教説の成立に当たって重大な影響を及ぼした。ロゴスは「父」の言である「子」(=イエス)の本質とみなされた。これにより「ロゴス」はキリストの別称ともなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9


とある。
キリスト教はこの記述を強引に三位一体論と結びつけたようだが、
どうもこの解釈には納得できない。
特にヨハネによる福音書の冒頭、1-1~5の中にイエス・キリストが述べられている、とはどうしても思えない。
それで、今度は三位一体について調べてみた。
ウィキペディアでは、


「Trinitas(三位一体)」という語は教父のテルトゥリアヌスによる造語で、「ヨハネによる福音書」の一節に、神である父が神であることば(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる聖霊を遣わす(ヨハ1:1, 14, 14:12, 16-17、26)という構図からによると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93


とある。
とにかくヨハネによる福音書の記述がもとになっているようだ。
これによると、1-1~5の記述からではなくて、この少し後の


1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。


から三位一体を持ってきたようなのである。

>1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。


この記述は、「神の霊が人間(アダム)の肉体に宿った」
と解釈できるので、「人類全体について述べている」
と考えられる。

>それは父のひとり子としての栄光であって、


問題はここだ。
「ひとり子」というからには「ひとりの人間」だから、イエス・キリスト、あのナザレのイエスを指している。

となると1-14の記述は、人類全体について述べているのではなくて、イエス個人について述べている、と解釈される。

つまり、「わたしたちのうちに宿った。」
というのを「私達人間の各人の肉体の中に神の霊が宿った」
というのではなくて、
「あのナザレのイエスの時代の人々の間に、神の子としてイエスが来られた」
と解釈したのだ。

そうすると、
>1:14そして言は肉体となり


この肉体とは、イエスの肉体を指しているから、言=イエスとなる。

「そうか、これは、イエスの受肉について述べている、と解釈したのか。
だから、ここから1-1~5に遡って、言(ロゴス)=イエスと解釈したのか。」
と解った。

「なるほど」というかこれで少しは納得できた。
しかし、私としては、
「その理屈は解ったが、そこから1-1~5に遡って、1-1~5に出てくる言(ことば)をイエス・キリストと受け取るのは無理があるんじゃないか?」
という疑問は拭えないが。


まあ、私の考えはともかく、となると、教会、キリスト教が勝手に解釈したのではなくて、教会としては、

「この解釈には原典に即したそれなりの筋、理屈がある」、となる。
そして、イエス自身が、自分は「父(神)の子である。私は父(神)から遣わされた」と言った、と書かれてある。


14:13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。


16:27父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。
16:28わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。


原典を尊重すると、原典(ヨハネの福音書)自体に三位一体論が書かれてある、と解釈できる。
イエスの誕生にしても、「処女マリアに聖霊が宿ってイエスが生まれた」、とあるので、イエスはもともと神の子として生まれたことになっている。

三位一体論というのは、教会、キリスト教が勝手に捏造したという訳ではないのだ。
作者(天使)の方が三位一体論を推奨した、というか、そう思わせるように仕向けたのだ

では、作者(天使)が「三位一体論は必要だ」としてこういう記述を入れたのだろうか?
確かに、
「キリスト教を神聖なるもの、として普及させる為にはイエス自身に神秘的、超常的なもの、超人的なもの、奇跡などが必要だ」
というのは解る。

「神は人類を愛していたので、ひとり子(イエス)をこの世に遣わして、そのひとり子を十字架に架けて人類の全てにかけられていた原罪という呪いから開放した(贖った)」

という感動的(?)なストーリーには心を揺さぶられる。

そう考えれば、三位一体論も必要だった、というのは理解できる。
だが、では、この三位一体論と終末の救済(再臨と掲挙)がどう関係しているのか?
というと、「あまり関係無いのではないか?」
と思える。

「キリスト教を広める為には三位一体論が必要だった」
ということは理解できるが、20世紀末の終末、再臨と掲挙の間際になったら、
「三位一体論はひとまず置いといて、再臨と掲挙の時期と方法を探ること」
に全力を挙げた方がいいのではないか?
と思える。


つまり、

「三位一体論というのはキリスト教を広める為の方便であり、

いつまでも三位一体論に拘るのはもはや時代遅れだ」
ということだ。

聖書をもっと宇宙的、科学的に解釈していかなければならない。
あのナザレのイエスは天使軍団から派遣されてシナリオ通りに演じたただの俳優の一人にしか過ぎない」
と認めないと、聖書の真意も理解できない。

ナザレのイエス個人を過度に神格化するのは聖書の本質、真意を理解することの妨げになるのではないか?
と思う。


しかし、キリスト教では「ナザレのイエスは天使から俳優の一人にしか過ぎない」
なんていうのはとても容認できないトンデモナイ考え方なのだろう。

二千年間も信じてきた根本教義を捨てて方向転換するのは、教会にとっても信者にとってもたやすいことではない。

しかし、「時代の流れに即した科学的な解釈を受け入れる」という柔軟性も必要なのではないだろうか?

天使達は、「地球人はもっと簡単に方向転換できるのだろう
と予想したのだろうか?

となると、ここに天使の誤算、見込み違いがあった、と言わざるを得ない。
地球人はそんなに簡単に方向転換できなかったのである。

とにかく、1999年に予定していたイエスの再臨=天使の地球復帰というメインの目的達成には失敗してしまった。

その予定時は過ぎてしまったのだから、「失敗してしまった」
という事実は変えようが無い。

そして、教会も信者も今だに

イエス再臨の予定時は過ぎてしまった
ということを理解できないで、相変わらず

これから先、いつか来てくれるだろう
と思っている。

私が「いや、再臨の予定時はもう過ぎてしまったんですよ
といくら説明したところで、「???」だろう。


天使が、「次回に成功させたい、再トライしたい」、というのならば、今回の失敗の原因を協議して対策を練らなければならない。