ソドムにおけるロトと、エリコにおけるラハブが「何故救われたのか?」
という理由は、
「主から派遣された二人の使者をかくまい、助けたから」
ということで同じである。
しかし、町の住民が滅ぼされた理由というのは少し違う。
ソドムの場合は
主が、「住人の風紀が大いに乱れている」、と聞き、それが本当かどうかを確かめる為に二人の使者を派遣し、
「町に十人以上の正しい者がいた場合は町全体を滅ぼさないが、十人も正しい者がいなかった場合は町を滅ぼす」とした。
では、エリコの場合はどうなのだろうか?
というと、
「ヨシュア率いるイスラエル人がエリコの町、カナンの地を征服する」ということは既に決まっていた。
主が「カナンの地を征服しなさい」と命じているのである。
その理由として、
「カナン人は異教の神であるバアルを信仰している。つまり、悪魔崇拝をしているので、それを止めさせて自分(主=神)を信仰させるようにするため」
としている。
「カナンの地にはびこっている悪を滅ぼし、正義を導入する」
と言えば聞こえがいいが、
「なんだ、結局、主は自分が崇拝されたいから、自分のためにヨシュアとイスラエル人をけしかけているだけじゃんか」
とも思える。
しかも、多くの日本人からすると、
「旧約聖書、モーセ五書とヨシュア記なんて、史実かどうかもはっきりしないユダヤ人の神話で、ユダヤ人が歴史を自分達に都合よく書いて、土地の所有権の正当性を主張した書で、ユダヤ人じゃない我々には関係ない話じゃん。
ユダヤ人以外の土着民、カナン人からしたら随分残虐で酷い話じゃないか。
征服される側からしたらたまったもんじゃないよ」
と思って、あまり、というか全然共感できない話だと思える。
やはり、どうしても「旧約聖書というのはユダヤ人のための書だ」
という先入観から抜け出せないで読んでしまう。
そして「歴史書であり、預言書(予言書)ではない、我々の未来とは関係無い」
と思っているので、「どうでもいい、他人事だ」
と感じてしまうのである。
だが、聖書に出てくるイスラエル人というのは、天使軍団=天使的未来人の喩え、暗喩であって、いわゆるユダヤ人を指しているのではない。
そして、カナンの地というのは地球の暗喩であり、カナン人とは地球人の暗喩だった。
その地球人は騙されたからとはいえ、悪魔崇拝をしていた=悪魔軍団に仕えていた。
だから、悪魔崇拝、バアル信仰を止めさせる、というのは、
「目覚めて事前に未来を知り、悪魔軍団の支配から脱却しなさい。悪魔政権を打倒して天使の方を崇拝しなさい」
という忠告だとも取れる。
では、カナン人、この場合だとエリコの住人はどうしたら助かったのか?
というと、
「イスラエル人が侵攻してくる前に降伏しなさい。事前に降伏すれば助けてあげるぞ」
というのである。
「随分と傲慢で身勝手な要求だなあ」
と思われるが、これは、
「期限=1999年までに、地球の支配権を天使軍団に渡しなさい」
すなわち、
「期限=1999年までに天使軍団を呼んで、受け入れて、悪魔軍団に対抗するために連合提携しなさい」
という忠告だ、とも考えられる。
エリコはこの要求を拒んで、町の門を閉ざして立て籠もった。
それで、ヨシュアも仕方なく攻め立てのである。
イエスというと優しい、憐れみ深い、というイメージが強く、
「神の命令の為には残虐なことも厭わない」、という勇猛な神の戦士であるヨシュアとはかけ離れているように思えるが、
イエスも「諸国民を鉄の杖で治める」
と表現されているので、ただ「優しい、慈悲深い、忍耐強い、無抵抗でされるがまま」
というだけではない。
再臨のイエスは、自分には従わない者、愚者を厳しく排除しようとする。
エリコの住人が助かるためには、町をヨシュア(イエス)に明け渡すしか他に道はなかった。
これは、地球人が全体として救済されるためには、「期限までに天使軍団を受け入れるしか他に道は無かった」、というのに対応している。
カナン人の他の町のケースでも、ギベオンという町では事前にイスラエル人に降伏したから助けられた、という話がある。
ギベオンの住人は、
「いずれ、必ずカナンの地はイスラエル人に征服されてしまう」
と解ったから抵抗しないで事前に降伏したのである。
つまり、未来を事前に知ったから適切な対応をしたので助かったのである。
天使としては、「ギベオンの住人の対応を見習いなさい」
と忠告したのである。
ここでも、「悪魔軍団に支配されている」、という未来は告げていない。
「悪魔崇拝をしているカナン人を征服する」
という形で仄めかされてはいるが。
天使にしたら「それくらい解れよ」ということなのだろう。