■親という存在、子という存在に対する問いかけ | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!

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ポッドキャスト韓国語マガジン“サランヘヨ・ハングンマル”の編集長が、韓国と韓国文化の見つめ方を伝授します。


「愛する私の娘…ドーター」


●親子の“ことわり”と親子の“呪い”


先月観た映画ですが、久しぶりに深く考えさせられ、心に長い間残る韓国映画でした。『ドーター(다우더)』、つまり「娘」という題名です。


主役を演じている若干30歳のク・ヘソンさんが自ら監督を務めているわけですが、話題の多い彼女がいったいどんな「娘」を描くのか興味津々でした。


韓国版『花より男子』の主演をはじめ女優として華々しい経歴を持つヘソンさんは、小説家、イラストレーター、ピアニスト、作曲家、画家、映画監督など多様な顔と旺盛な才能を持っています。


しかし、その華々しさゆえに偏見も多く、なかなか評価が定まらない感があったと思いますが、その先入観を除いて考えれば、彼女の演出した映画作品はとてもいいものが多いです。


今回も、「ク・ヘソン」という“顔”を外して観た時に、これはとても優れた作品でした。とても深く考えさせられました。


「父母は、父母だという理由で、子供の心を本当に痛くする」


作中のこの台詞は二つの意味を持っています。


父母であるその絶対的な絆ゆえに、子供を支配し、傷つける存在であるということ。いっぽうで、父母であるその絶対的な絆ゆえに、子供を愛さずに生きることができない、かわいそうな存在であるということ。この二つのゆえに子供の心を痛くするわけです。


その二つは共に、親子の親子たる“ことわり”でもあると同時に、親子の親子たる“呪い”でもあります。


特に日本では昔から、父親よりも母親を中心としながら、発達心理学的に子供の成長に母親がいかに大きな影響力を持つかということが、「母原病」という言葉でいわれてきました。最近の日本でも、その論点は変わらず言葉を変えて語られているようです。


本来、母親も一人の人間であり、女性であるのだけれど、育てられる子供にとっては、すでに発達心理的構造ゆえに、神のごとき絶対的な存在であらざるを得ない。しかしその子供が成長すれば、自然に自分の母を、「ああ、母も一人の人間であり、女性なんだな」と思って、親を許して和解し、自らもその位置に上がることができる。その「イニシエーション」は、時代がいくら変わろうと、人間の成長の段階として普遍的に繰り返されていきます。


この映画は、その誰にでも起こる過程を、かなり極端な母と娘を登場させることで、とても痛く厳しく、それゆえに悲しく忘れがたく描いています。


ただし、ここにおいて日韓の違いは、このような親子の共依存的課題は日本ではほとんどすべてが母親との関係でなされるのに、韓国では父親との関係でもまったく同じように起こり得るということです。この映画でも、主人公は母娘の関係でしたが、主人公のメンターとなる隣に住むピアノの先生においては、それと同じことが父娘の関係で起こっていたわけです。


これは、日本では、家庭における父親の影が薄いことゆえに、子供と近い存在が母親ということになるからだろうと思います。韓国では儒教的背景ゆえに、それはどちらともいえず、父親のほうが近いということもあり得ます。



●日本と韓国の親子の違いも絡めながら


英語でも息子を「MY SON」と呼ぶことはしますが、韓国では、父親も母親も、自分の息子を愛情を込めて「私の息子(ウリアドゥル)」と呼ぶし、娘を「私の娘(ウリ・タル)」と呼びます。我が妻も四六時中、使っています。これは、子供が自分にとっていかに特別な存在であるかを、自らが確認する言葉でもあり、また伝える言葉でもあります。


そこにおいて前述の親子の“ことわり”のように、父母という存在の愛おしさであり、怖さでもあるのは、親として絶対的愛の主体でありながら、同時に子供なしに生きられない愛の虜でもあるということ。つまり、その両方が合わさって、それが無言のコントロールとして働く時にはそれが“呪い”ともなるわけです。


それはこの映画でも表現されていますが、「あなたはそんな娘ではないはず」という期待付きの愛情です。期待に応えれば愛情を無条件に注ぐけれど、期待に外れればただの失望では終わらずに、親自身が悲しみ傷つくという「罪」を犯してしまうことになるため、子供は自らが「罰」を受けることが当然の存在になってしまうわけです。


この映画の、不幸な母親は、一種の「サイコ」的基準で娘を支配していきますが、たとえ自分本位ではあろうとも、熱い愛情があるのは間違いがない。娘が自分の心に適わない時には、一転して徹底してののしり、体罰を与える他罰的依存状況にありますが、しかし、母親の愛情を必要としている娘は、そのような母の罰を恐れながらも、同時に母親を傷つけることができない自罰的依存状況にあるわけです。


その娘の姿はけなげでかわいそうですが、しかし同時に当の母親も、子供に与えつくす不幸な親として、同じようにけなげでかわいそうであるのも確か。それゆえに、子供時代の主人公は、母親を憎みながらも、決してそれをまともに表現して母親と対決することができません。


それができるようになるのは、自分も子供を身ごもって母親になったその瞬間からです。唯一、同じ立場に立った時にだけ、あくまで対等の立場で話ができるようになる、そのような呪縛であるわけです。


「私として再び生まれて幸せでしたか?お母さん…。花の種を植えて、咲かない花の香りに酔った私のお母さん。あなたは誰ですか?」


主人公が詠うこの詩句には、深い意味が込められています。


映画は、最終的には親の愛に対する重たい讃歌として受け止めることができますが、そうなり得る理由は、主人公もまた娘として、同じ道を行く母になるということのゆえです。その“ことわり”と“呪い”の間で、答えの出ない問いかけを受け継いだということのゆえに、母に対する歓送として讃歌になり得るわけです。


さらにここにおいて、日韓の違いと感じることは、日本でならば、おそらく母からの独立という課題がなされたことをよしとするだろうに、韓国では、必ずしも独立をよしとせず、主人公が親になった時点でもう一度戻ってきて、やはり母親としての影に永遠に囚われて生きていくことを選択することが肯定的に描かれている点でしょう。


母への問いかけは、その後も生涯、主人公と共にあり、さらにはその娘へと引き継がれていく、それ自体が親子の“ことわり”として貴いものに描かれています。これはすなわち、親が子供であった過去を持ち、子供もまた親になるならば、その互いの立場は互いの鏡、両義的なエゴの一側面として互いに一つである、と考えるからだろうと思います。



【あらすじ】 この世の中で最も特別な存在として、ひときわ娘を世話し、ひときわ執着する母親(シム・ヘジン扮)。思春期の娘“サニ(ヒョン・スンミン扮)”にとって、その母は、この世で一番怖い存在だ。


どこに行こうと、サニの横には、一挙手一投足を監視しながら影のようにつきまとい、そして自分の言葉に従わない時には、とてつもない憤怒と背信を感じるお母さんがいた。そんな母親にサニは恐怖と反抗心を感じるが、ある日、隣に住む一人の女性がサニにとって救世主となる。


時は流れ、大人となったサニ(ク・ヘソン扮)は、恋人との間に予期せぬ妊娠をすることで、忘れたかった母親とのつらい記憶を思い出し、生まれて初めて母親と正面から向かい合おうと決心する。























『ドーター(다우더)』(ク・ヘソン監督)予告編。

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