■韓国の陸の最東端、浦項市にファムツアー!(*´▽`) | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!

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ポッドキャスト韓国語マガジン“サランヘヨ・ハングンマル”の編集長が、韓国と韓国文化の見つめ方を伝授します。

「九龍浦」には、植民地時代の日本家屋、日本の神社跡、尋常小学校跡、料亭跡、映画館跡、
産婦人科跡、遊技場跡などの建物たちがそのまま残されて、日本文化体験コースとなってます。



●日本との絆、近さが感じられる浦項市!


日本人にとっても関係の深い街、恩恵を受け、恩恵を与えた歴史の縁を肌で感じられる都市・浦項(ポハン)を、日本に向けてPRするための浦項市庁主催のファムツアーに行ってきました!ヾ(≧∇≦)〃♪


浦項市は、韓国で陸地の最東端、日本に近い位置にある鉄鋼都市ですが、今回、出会った浦項市の方々からもまた、その距離と同じくらいの“近さ”を感じることができて嬉しかったです。ご馳走されたテゲ(ズワイガニ)とクァメギ(サンマの干物)が美味しかった!


かつての植民地時代には、日本の香川県や岡山県、山口県、三重県などからたくさんの漁師たちが移り住んで、「九龍浦(クリョンポ)」の海岸を埋め立てして住居を構え、サバなどの豊富な海産物を大量に日本に送ったという有名な日本人街があったわけですが、いっぽうで戦後、韓国の経済発展の要となったPOSCO(ポスコ)が浦項にスタートする時には、今度は日本が大きな経済援助をして、現在の東洋最大級の製鉄会社の立ち上げに寄与しています。


それらの絆こそが、今回、親切に案内してくださった浦項市役所職員、ボランティアガイド、ポスコ社員の方々を通して感じた“近さ”の理由でもありますよね。(*´▽`)



●100年前にタイムスリップできる日本通り


有名な「盈徳(ヨンドク)ガニ」のもう一つのふるさとでもある巨大水産市場「竹島(チュクト)市場」は、遠くの地方からも押しかける多くの客で昼間から賑わい、その品揃えの立派さに目を丸くしました。そこからも、「ここの海は半分が水で、半分が魚」とまでいったという、かつての日本漁師たちの驚きに思いをはせることができましたね。


ということで、今回一番印象に残ったのが、最盛期の1932年には287世帯1161人の日本人が住んでいたという、前述の九龍浦(クリョンポ)の「日本家屋ストリート」でした。今は40軒ほどが当時の外観そのままで残されて、日本文化体験コースとなっています。実際、韓国の他の地域でもかつての日本家屋はところどころに残っていますが、ここまで町ごと残っているような所は他にはなかったはず。初めて見ました。


100年前、1900年代初頭の日本式家屋に、私たちもノスタルジーに浸れますし、まるで映画のセットのようでもありますが、実際、私が韓国に来た当時に最高の人気を誇っていた韓国ドラマ『黎明の瞳(여명의 눈동자)』(1991~1992)は、日本でのシーンをここで撮影したのだそうですね。(*´▽`)



「九龍浦近代文化歴史通り」という名前になっていますね。



「かじや」という日本風(?)コーヒーショップになってます。基本、みんな人が住んでいます。



カフェの内装も、当時の日本の家屋を味わえるということがウリのようですよ。



当時ここに存在していた日本式の郵便ポストが復元されています。懐かしい~!



ここが九龍浦一のお金持ちで漁業組合長だった橋本善吉さんの邸宅跡「近代歴史館」です。



すばらしい邸宅ですよ。



中は当時の生活が再現されていますが、日本人には「?」が多いのはご愛嬌ですね。



うむむむむむ、ですけどね。



貸衣装である日本の浴衣を着たかわいい韓国の女の子が走り回ってました。座敷わらしかと思った…。





当時のトイレですね。小便器もあるって、やっぱりお金持ちだからでしょうかね。



2階から見下ろした庭です。



●消されなかった「十河彌三郎」の名前


少し悲しい話ですが、韓国が独立し、日本人が皆帰った後には、この町の住人の一部の青年たちが、植民地時代の日本の痕跡を町からすべてなくそうという運動を行い、この地に建てられた記念碑などの日本人の名前を消してしまいました。


ところで、植民地時代、九龍浦には、朝鮮総督府と交渉しながら、港湾施設や防波堤をつくった十河彌三郎という義人がいました。町民からも慕われ、漁業組合長であった橋本善吉が中心となって、十河彌三郎の故郷であった岡山からわざわざ巨大な珪化木を船で運んで、町の中心の九龍浦神社の境内に「頌徳碑」を立てますが、独立後はこの碑の名前も消されてしまいます。ところが、この碑をなくそうという話になると、今度は町の年配者から反対の声が起こったのだというのです。


また、九龍浦神社に向かう長い階段には、両側に日本人寄進者たちの名前が刻まれた石柱が並んでいましたが、それらも名前が消され、裏向きにして代わりに韓国人住民の名前が刻まれました。ところが、最近になって、たった一つだけ裏側の名前が消されていない石柱が見つかったというのです。その名前が他でもない「十河彌三郎」でした。


これらは、韓国人にとって、日本の植民地支配の事実は消したい記憶であっても、しかし、その時代に結んだ日本人とのよき絆は、心の中、目に見えない形でもずっと残したいものであった、という韓国人の心情が感じられる、そういった出来事ではないかと思いました。



こちらが町の中央の高台にある九龍浦神社の跡地。今は韓国式の社堂が建ってます。


当時の写真が展示されています。日本の子供は着物、韓国の子供はチョゴリを着てます。


日本の軍人の魂を祀る忠魂塔があった所に、今は韓国戦争の戦死者を祀る忠魂塔が建ってます。
この狛犬は当時のものがそのまま残されています。


でも、日本人の名前がそのまま残っているものもいくつかありますよ。


日本の尋常小学校だったのが、その後、韓国の小学校として使われ、今は廃校となっている建物。


九龍浦は9匹の龍の伝説がある地。中心の公園であるここに伝説を記念したオブジェがあります。


これが十河彌三郎さんの「頌徳碑」ですが、残念ながら名前は消されてしまっています。


神社に上がる階段だった所。この両側の石柱の一つに「十河彌三郎」さんの名前が残されてます。


突然、登場した韓国人カップル。日本体験満喫はいいですが、男性の帯が違いますし、刀は傘です。


ここで浴衣を貸してくれます。中でも日本文化体験ができるそうです。雛人形が見えますね。


また奇妙な格好のカップルが…。私たちにはこれも一種の韓国体験ですね。(^^;)


こちらもカフェ「古里家」です。「屋」じゃなくて「家」になっているのがご愛嬌か。惜しい!


ここで撮影されたドラマ『黎明の瞳(여명의 눈동자)』のシーンが展示されています。


主人公になりきる場所。後ろは韓国食堂ですね。


いただいた紙バッグにも日本ストリートの写真が印刷されています。


こういう薄いパンフレットと。


こういう厚い本で当時の九龍浦のことが詳しく知ることができますよ。(*´▽`)



※お問い合わせ… 浦項観光の日本語お問い合わせは、浦項市庁日本担当の朴宥貞(パク・ユジョン)さんまで。直通番号は、054-270-2642。在日コリアンなので、日本語がネイティブの方です。安心してお掛けくださいネ。(*´▽`)


【行き方】 ご覧のように慶州の近くで、KTX新慶州駅から連絡バスで40分です。新慶州駅まではソウルからなら2時間10分、釜山からなら30分です(KTX)。南の金海空港からリムジンバス2時間で行くことも可能ですよ。




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