先日、お彼岸の法要で和尚さまとお話する機会がありました。
若干前回からの続きになります。
“和尚さま”の呼び方って、土地によって様々だと思いますが、私が住んでいる地域では“おっさま”と呼ぶので、以下おっさまで統一したいと思います(笑)
以前にも少し書きましたが、私は父が亡くなった当初「自殺しようか、それとも出家しようか」と考えていました。
周りの人たちの「お金お金」「自分自分」ばかりが見えてしまって、“俗世間”にいるのがしんどくてたまらなかったんです。
結構本気だったので、親族が集まった席で「出家したいです」とおっさまに相談したこともありました。
そのため“腫れ物認定”され、誰もその話題には触れてはきませんでしたが(笑)
その後、自分と向き合っていくうちに「私は“俗世間”から逃げたいだけだ」と気がついて、例え仏門に入るための修行が大変であっても、私にとってはそれは“修行”ではなく“楽すること”だと思い、結局出家するのは断念したのですが。
そんな経緯もあり、今回おっさまに「出家はやめてカウンセラーを選びました」と報告したんですね。
そこから「やはりお寺に悩みを相談しに来る方もいますよ」というお話になりました。
「いのちの電話から、手に負えないと紹介されてくる方もいます」「話をお聞きして、それでもという場合はご祈祷します」と。
ん…?
自殺相談に対して、「手に負えない」とお寺を紹介する?
相談員はボランティアなので、よほどの熱意がないとできないことだとは思いますし、人員も時間も限られているので、仕方のないことなのかもしれませんが…
私だったら「あ、面倒だからたらい回しにされてるな」と不信感を覚えそうです。
それにそんな“手に負えない”ような悩みが、ご祈祷で解決するんでしょうか…
何だかちょっと違和感を覚えました。
いのちの電話って、つながらないことで有名ですね。
「命の電話でしか自殺相談できない」と思い込んでいる人もいるかもしれませんが、殺到するのはおそらく、“無料”という手軽さからだと思います。
たとえカウンセラーなどの存在を知っていたとしても、お金を払ってまで話を聞いてもらおうとは思わないかもしれませんね。
でも、あなたの心や命って、お金をかける程の価値もないんでしょうか?
タダでちょっと話を聞いてもらったら楽になる程度の悩みで、死のうと思うんでしょうか?
価値観は人それぞれではありますが、お金とか心や命の“価値”が、なんだか歪んでいるように感じます。
いのちの電話に電話するということは、「この苦しみから逃れたいけど、本当は死にたくない」と感じているからこそ。
自分をこの苦しみから救えるのは、いのちの電話でも、宗教や“神様”でもありません。
自分自身しかいないんです。
本気で死のうと思うのなら、死ぬ前に一度、本腰を入れて苦しみの根本に向き合ってみてもいいんじゃないかな、と思いますよ。
ちょうど、“価値”について書いたまま、投稿するタイミングを逃していたブログがあるので、明日はそちらを投稿しますね。
それではまた