こんにちは、お疲れさまです。
今日は脳内整理的にブログを更新するので様々な概念が飛び交い錯綜します。
そして答えはきっと出ません。いや、出ません(断言)。ご了承ください。
「想定される身体」と書きましたが勘違いのないように補足しておきます。
本日のテーマである「想定される身体」は審査員から見た競技者ではなく、観客から見た競技者です。
昨日に引き続き、バトンにおいてはフリースタイル種目を前提とします。
では本題。
尼ヶ崎彬氏の著作『ダンス・クリティーク 舞踊の現在/舞踊の身体』をご存知の方はおられますでしょうか。
読んで字の如く、舞踊、ダンスにおける批評本ですが非常に興味深い内容が盛りだくさんです。
開いてみると、
芸術と身体――身体の脱秩序化と再秩序化
という如何にも私に読んでくれと言わんばかりの章が身を潜めています。
さあでは意を決して脳内整理していきます。
(まだ読んでくれている皆様、ここから本当に覚悟して読んで下さい。私も混乱中です。)
尼ヶ崎さんは芸術における身体をまず、
「表現された身体」 「表現する身体」
の2種類に分類し定義付けています。
言い換えれば、前者は「表現媒体」で後者は「表現内容」とも言っています。
私なりに解説するとすれば、
浜辺美波が『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』という映画で
メンマ役を演じているとすれば(実際しています←)、われわれ視聴者は
浜辺美波の身体を通じ、仮象の身体としてメンマのイメージ、いわば「表現内容」をそこから読み取ります。
これが「表現された身体」です。
一方で、「いや、浜辺美波をメンマとして見るのではなく、一女優としての浜辺美波が見たい!」
という方々もおられると思います(これは私です)。
要するに、「表現媒体」として使用される浜辺美波自身の身体のことを「表現する身体」と言います。
この分類の仕方は非常に重要で、
眼前に立ち現れる「表現する身体」と、表象されている「表現された身体」
これらの概念は演劇、舞踊等の実演芸術と映画を区別するのに重宝します。
今からお話しする内容を考えていたら先ほどの映画における浜辺美波の例が
あまりよくない例だということに気が付きましたがそんなの気にせず先に進みます←