てげてげ日記

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見たもの、聞いたもの、興味のあるもの、思いついた時に思いついた事をてげてげに綴ります

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鹿児島に帰って来てます。

昨日、鹿児島市内から鹿屋市の実家へ移動する際に利用した、鹿児島中央駅~鹿屋間の直行バスに乗り、以前から気になっていた事2件に遭遇しました。

まずは、バスがフェリーを降りて垂水港のバス停に着き、鹿児島市内からのお客さん数名が降りた際。

バスに近づいて来たのはバスと同じフェリーから降りて来たであろう人で、鹿屋方面へ行きたいと思われる中年の男性。

運転手さんに鹿屋まで行きたいけど、このバスに乗れるか訊ねると

「このバスは乗れませんよ」

という返事。それだけ。

直行バスは鹿児島市内を出ると、乗車できるのはフェリーに乗る前まで。
垂水から鹿屋までは下車のみ。鹿児島市内行きはその逆。
それはシステム上しょうがないんですが、問題は運転手さんの答え方。

「すみませんが、このバスは垂水からの乗車は出来ないので、一般の路線バスが向こうのバス停から出ていますから、そちらにお乗り下さい」

と言えばいいと思うのです。

「(そのバスに)なぜ乗れないのか」
「代替手段は何があるのか」
「代替手段を使うにはどうすればいいのか」

それを伝えなくては。

はっきり言うと、鹿児島の路線バスの運転手さんは接客の悪い人が多いです。
言葉遣い、態度、運転。
中には大変丁寧な接客をする方もいますが、不快な思いをする事も多いです。

それから、鹿屋に着いて料金を支払う段階になり、中年の男性が「1万円札しか無いんですが・・・」と運転手さんに申し出たようで、運転手さんは近くのお店に両替に行くように促しました。

鹿児島市内から鹿屋まで料金は1300円。
空港バスだと2000円です。

それだけの長距離路線で1000円を超える運賃が発生するのなら、高額紙幣の両替ぐらい出来るようにするべきだと思うのです。

もちろん高額紙幣の両替を希望する人が1人とは限らないので、両替機に搭載する金額は大きくなりますし、そうすると強盗対策などの問題もクリアしなくてはなりません。

本来バスに乗るのなら高額紙幣は予め両替しておくべきでしょうが、中にはギリギリでバス停に着いて両替をする余裕のなかったお客さんもいるかもしれません。

鹿児島市内~鹿屋の直行バスは新幹線利用客の二次利用を見込んで設定された路線です。
実際には観光客は少ないような気はしますが・・・
しかし建前が観光路線である以上、きちんとしたもてなしが必要だと思います。

鹿児島中央駅のバス乗り場も以前からわかり辛いと指摘されているのに、案内用の機械を1台設置しただけで、しかもその機械は操作がわかり辛い上に時刻表の改訂が遅れているというみっともない状態。

そして間もなく、電車通りを挟んだ駅前に完成した南国交通のビルにバスセンター機能の一部が移ります。ますます混乱すると思われます。
なぜバス乗り場を1カ所に集約して、わかりやすい案内を心がけないのか。

疑問でなりません。



「鹿児島小唄」を制作するきっかけとなった「國産振興博覧会」ですが、会期が昭和6年4月1日~5月15日。

大規模な博覧会ですから普通は何年も前から企画し、準備を進めるものですが、この博覧会の開催が決定したのは前年、つまり昭和5年、しかも暮れの12月。
開催まで半年も無い状態での決定だったようです。

作詞の西條八十、作曲の中山晋平の両名は恐らく昭和6年の初めに「鹿児島小唄」取材の為鹿児島を訪れたものと推察されます。
(取材に訪れたという資料はありますが、来鹿時期までは判明しませんでした)

当時のヒットメーカーである両名が来鹿したわけですから、当然博覧会の主催者側では両名を歓待したようで、その宴席には当時の鹿児島花柳界でも美妓でならした南券番(通称 南券=なんけん)の喜代治が呼ばれました。

その宴席で喜代治は先輩の芸妓の一八が得意とし、一名「一八節」とまで言われ、その一八から直接教わったという「小原良節」を披露しました。

当時の券番温習会の新聞論評で「鈴を転がしたような美声」と言われた喜代治の美声、そしてその美貌。
作曲の中山晋平は喜代治に夢中になり、東京への進出と「小原良節」のレコーディングを強く勧めます。
後に喜代治はこの勧めに従って上京する事になり、スター歌手「新橋喜代三」として世にでますが、こちらの話はいずれ「小原良節」の記事で詳しく触れたいと思います。

新橋喜代三
【写真:新橋喜代三(鹿児島時代の前名 喜代治)】


「鹿児島小唄」に話を戻しますが、非常に短期間で企画・制作された「鹿児島小唄」は博覧会を前に発表され、その軽快な曲調と鹿児島の名所、方言を取り入れたこともあってか、瞬く間に県下に知れ渡りました。

当時の新聞には鹿児島市内の料亭が店の名前を織り込んだ替え歌を作り、それを配布したり、読者が替え歌を投稿したりといった記事も見られます。

先に書いたように、会期中は連日市内3券番の芸妓衆が連日日替わりで演芸館の出し物を担当し、「鹿児島小唄」も毎日披露されました。

博覧会は45日の会期を終え、5月15日に無事閉会しましたが、「鹿児島小唄」はその後も花柳界のみならず一般市民の間でも歌い踊られました。

戦争を挟んで観光ブームとなった昭和40年代を経て、昭和50年代頃までは民謡関係の方々も取り上げていたようですが、時代の変遷とともに歌われる事も少なくなりました。

私もここ5年程、新たに三味線の手を付け、折に触れて舞台でも演奏し復曲を試みていますが、力不足でなかなか広めるには至らず、私だけでなく他にも演奏する方々どんどん増えて欲しいと願っているところです。

しかし、演奏する人が減り、当然聞く人も、そして曲そのものを知ってる人も少なくなっていっても、僅かながら一部の方々の記憶の中には残っていたようで、それが最近の南日本新聞のひろば欄への投稿となったものと思われます。

これを機にまた「鹿児島小唄」が日の目を見ると良いのですが。


2月8日、2月17日の南日本新聞(読者投稿「ひろば」欄)に「鹿児島小唄」が取り上げられていました。

ここ数年来この曲の復曲演奏に取り組む私としては嬉しい限りです。

このブログでは「かごしまの唄」というブログテーマを設けて、少しずつですが、鹿児島の民謡に関する記事を書いて行きたいと思います。

そして、第1回目となる今回は先に書いた「鹿児島小唄」について。


「鹿児島小唄」は昭和6年(1931年)4月1日から5月15日まで鹿児島市の鴨池遊園地(現在のダイエー鹿児島店敷地)で行なわれた、鹿児島商工会議所主催の「國産振興博覧會」の宣伝用として「鹿児島夜曲」と共に、西條八十作詞、中山晋平の作曲、藤本二三吉の唄で発表された新民謡です。
ビクターからレコードも発売されました。

國産振興博覧会ポスター

【写真1:博覧会のポスター】 

鹿児島小唄広告

【写真2:レコードの広告(昭和6年4月10日 鹿児島新聞)】

作詞の西條八十

【写真3:作詞の西條八十】

作曲の中山晋平

【写真4:作曲の中山晋平】

唄の藤本二三吉

【写真5:唄の藤本二三吉】

制作に至る経緯については博覧会の記録として昭和8年(1933年)に博覧会の会務総長であった鹿児島商工会議所理事の堀勇吉氏が編纂した「國産振興博覧會誌」の第7章「宣伝」の項目より引用します。
なお、引用にあたっては漢字の旧字を常用漢字に改めました。

 三、民謡宣伝
    民謡を以て博覧会気分を醸成し、南国鹿児島を博く全国に
    宣伝する為め、本会は民謡作家として有名な詩人西條八十、
    作曲家中山晋平の両氏を招聘して鹿児島小唄及鹿児島夜曲を
    作り上げた。鹿児島小唄は維新当時新日本建設の為め勇躍
    した薩摩隼人の意気軒昂たる新興気分を歌ったもので、曲も
    亦至極男性的であると共に現代的特色を加味した薩摩情緒
    豊かなものである。作曲と同時にビクターレコードに吹込
    まれ、亦会期中は毎日演芸館に於て、市内三券番美妓連に
    よって宣伝したので一般に非常な歓迎を受けた。鹿児島小唄
    及夜曲は左の通りである。
    (※会誌には次のページに歌詞と楽譜を載せている)


さて、肝心の鹿児島小唄の歌詞ですが次の通りです。

   一、ほのぼのと 兵児(へこ)の謡(うた)から 薩摩は明けて
      燃える朝日の 桜島
       ※サテサテ薩摩の 鹿児島よかとこ
        ソイジャ ソイジャソイジャ ガッツイソイジャナ
             (※部分は二番以降も同じ)

   二、桜ちる 山は城山 男は西郷
      風は南風(はえかぜ) 薩摩潟


   三、磯御殿 むかし偲べと 咲く桃の花
      ぬらす情の 島津雨

   四、霧がくれ 薩摩乙女の 黒髪かなし
      こよい出船の 沖小島

   五、その功 今も昔も 照国神社
      松の緑の なつかしや

   六、あかあかと 焼けば燃えます 曽我どんの傘が
      空は五月雨 遠茜

   七、石の橋 五つ並んだ 甲突川に
      架けて足したや 恋の橋

以上の7首ですが、レコードは収録時間の都合で5番と7番が割愛されています。
また4番の最後「沖小島」をレコードでは「おきこじま」と歌っていますが、鹿児島湾に浮かぶ「沖小島」の事のようですから、正確な地名としての読みは「おこがじま」です。

先の引用文にあるように、45日間の会期中、会場内に設けられた「演芸館」に、当時の鹿児島花柳界の「南券番」「西券番」「中券番」の芸妓が連日交代で出演し、この曲や古典舞踊、邦楽演奏などを行ないました。

舞踊の振り付けについては、3券番にはそれぞれの専属師匠が所属しておりましたので、各券番毎に振り付けが異なっていたとも考えられますし、また鹿児島の一大イベントとして統一した振り付けで踊られたかは記録が見当たらず定かではありません。

参考までに当時の各券番の舞踊の専属師匠名を列記しますと、
  鹿児島南検番 花柳 輔蔵
  鹿児島西券番 藤間 小伊勢
  鹿児島中券番 藤間 勘之丞

現在鹿児島には花柳界はありませんが、3券番から連日大勢の芸妓が出演したというところからも当時の花柳界の人気・隆盛振りが窺い知れます。
また、舞踊以外の専属師匠にも中央や県外から家元クラスの大御所が招かれており、当時の花柳界はそれぞれ高い水準の芸を披露していたと思われます。


その2へ続きます。