鹿児島小唄ーその2ー | てげてげ日記

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「鹿児島小唄」を制作するきっかけとなった「國産振興博覧会」ですが、会期が昭和6年4月1日~5月15日。

大規模な博覧会ですから普通は何年も前から企画し、準備を進めるものですが、この博覧会の開催が決定したのは前年、つまり昭和5年、しかも暮れの12月。
開催まで半年も無い状態での決定だったようです。

作詞の西條八十、作曲の中山晋平の両名は恐らく昭和6年の初めに「鹿児島小唄」取材の為鹿児島を訪れたものと推察されます。
(取材に訪れたという資料はありますが、来鹿時期までは判明しませんでした)

当時のヒットメーカーである両名が来鹿したわけですから、当然博覧会の主催者側では両名を歓待したようで、その宴席には当時の鹿児島花柳界でも美妓でならした南券番(通称 南券=なんけん)の喜代治が呼ばれました。

その宴席で喜代治は先輩の芸妓の一八が得意とし、一名「一八節」とまで言われ、その一八から直接教わったという「小原良節」を披露しました。

当時の券番温習会の新聞論評で「鈴を転がしたような美声」と言われた喜代治の美声、そしてその美貌。
作曲の中山晋平は喜代治に夢中になり、東京への進出と「小原良節」のレコーディングを強く勧めます。
後に喜代治はこの勧めに従って上京する事になり、スター歌手「新橋喜代三」として世にでますが、こちらの話はいずれ「小原良節」の記事で詳しく触れたいと思います。

新橋喜代三
【写真:新橋喜代三(鹿児島時代の前名 喜代治)】


「鹿児島小唄」に話を戻しますが、非常に短期間で企画・制作された「鹿児島小唄」は博覧会を前に発表され、その軽快な曲調と鹿児島の名所、方言を取り入れたこともあってか、瞬く間に県下に知れ渡りました。

当時の新聞には鹿児島市内の料亭が店の名前を織り込んだ替え歌を作り、それを配布したり、読者が替え歌を投稿したりといった記事も見られます。

先に書いたように、会期中は連日市内3券番の芸妓衆が連日日替わりで演芸館の出し物を担当し、「鹿児島小唄」も毎日披露されました。

博覧会は45日の会期を終え、5月15日に無事閉会しましたが、「鹿児島小唄」はその後も花柳界のみならず一般市民の間でも歌い踊られました。

戦争を挟んで観光ブームとなった昭和40年代を経て、昭和50年代頃までは民謡関係の方々も取り上げていたようですが、時代の変遷とともに歌われる事も少なくなりました。

私もここ5年程、新たに三味線の手を付け、折に触れて舞台でも演奏し復曲を試みていますが、力不足でなかなか広めるには至らず、私だけでなく他にも演奏する方々どんどん増えて欲しいと願っているところです。

しかし、演奏する人が減り、当然聞く人も、そして曲そのものを知ってる人も少なくなっていっても、僅かながら一部の方々の記憶の中には残っていたようで、それが最近の南日本新聞のひろば欄への投稿となったものと思われます。

これを機にまた「鹿児島小唄」が日の目を見ると良いのですが。


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