12日の名古屋でも思ったのだ。
本編が終わり、突然彼らのいない世界に放り出された私は、「もう、終わりなの?」と誰かに訊いてみたくなるほど短い・・・そう思った。しかし、実際には「夢魔」に始まり「FLAME」で終わるそのライブはおそらく、1時間半を少し超えていたはずだった。それを長いと感じるのか、短いと感じるのかは、過ごした時間の中身の濃さによる。
「一炊の夢」という言葉がある。一炊(いっすい)、もしくは一睡。
「邯鄲の夢」ともいうが、自分の一生を夢の中で見尽くした男が目覚めたとき、時は粟粥が炊きあがりもしないほどの短い時間しか過ぎていなかったという故事からなる成語だ。
ライブ中に見た世界が夢であるならば、その夢はこの世の果てに彷徨える魂の存在から描かれていたことになる。
闇の中
百鬼夜行
さまよう魂
執着、未練、
成仏しないものたち
では、夢の終わりにみたものは?
銀色の空の下
抱き合う恋人たち
彼らは微笑み 空に舞う
俺も 君も
花が死んでゆくように
花が咲き乱れるように
生きていけばいい
「FLAME」という曲は、燃える炎がいずれ消えるという疑いようのない事実を、諦観しているようで し切れていない一つの魂の迷いの歌でもある気がする。
「生きていけばいい」
相手を突き放し、距離を置いているようでいて、実はまだ未練や執着がどうしようもないほど湧き上がってくるその苦しさと悲しさと、そしてそうせざるを得ない寂しさが胸をついてくる。
恋がいつか終わることなど、とうの昔から知っている。なのに、その終わりがやっぱり受け入れられない。何度も何度も花が・・・桜が散っていくのを今でも見ているのに、その散り際に涙する。
いつか本当に花が散るように自分の身が儚くなり、魂になったとき、やはり黄泉彷徨えるものになってしまうのだろうか。
いや、そうありたくないからこそ、始まりが「夢魔」で終わりが「FLAME」なのだろう。
闇にさまよって終わっては、幸せになどなれないのだろうから。
今回は久しぶりにネイルも整えましたよん。ブルーです。黄色い小花と蝶々もいます。
それにしても・・・微動だにしなかった伯爵さま。どんな夢を見ていらしたのかしら?