(その2の続きです)
かつては、蒸気機関車が一番売れました。これはおそらくお客様の年齢によるものでしょう。彼らは主に年配の方で、そういった模型をみることで「古き良き日」を思い出すのです。理由は何であれ、1960年代の前半を通じて、海外からのディーゼルの注文はほとんどみられず、われらが国内市場においても歓迎されませんでした。しかし、60年代後半から様相が変わり、ディーゼルの注文が続々と届きはじめました。1タイプにつき、1,000台、2,000台に及ぶこともありました。
これは模型メーカーにとってかなり歓迎すべき事態です。スティームよりも圧倒的に共通部品が多いため、様々なタイプのディーゼルをつくるのはより簡単です。当時、EMDのラ・グレーンジ工場を訪問したのですが、実物からして同じスタイルのキャブストラクチャーが多くの機種に使われているようでした。これは工場を案内してくれた技術者にも確認した事実です。スティームの組立で、必要な様々な細かいパーツを揃えることに苦労していただけに、何て便利なんだ、と私は思いました。たった1ダースの異なるギアボックスと台車のサイドフレームで、全てのタイプのディーゼル・モデルが作れてしまうのです。
ディーゼルへのトレンドが始まっており、それらの製造がスティームに比べて容易だというのは明白でした。なすべきことは明らかです。まもなく私は、スティームに代えて、ディーゼルの製造に集中し始めました。私の判断が正しかったことは、売上増が証明しており、前述したように、70年代は私の会社の黄金時代となりました。
コストが私の成功を大きく左右します。組み立てがさほど複雑でないため、ディーゼルの価格は、スティームよりも低いのです。消費者へのアピールも成功の要素でした。ディーゼルは若いホビイストに買われていました。鉄道会社はあらゆるところで、ディーゼルへのコンバートを行なっていたので、ディーゼルがより身近な風景となっていたのです。日本の旅行者すら、売上げ増に貢献してくれました。彼らは米国に旅行して、そこでみたカラフルなディーゼルの美しさに魅了されたのです。私のキャッシュレジスターのベルは景気よく鳴り続けました。
ああ、しかし、この奇跡のような繁栄は、続きませんでした。70年代の終わりにかけて、世界経済が悪化したのです。今も続いている景気低迷ですが、最初の犠牲者はわれわれでした。不況はいつだって、生活必需品ではない産業にまず影響するのです。女房を質に入れてでもコレクションを続ける熱心なファンもいるにはいるのですが、われわれの潜在購買者の多くは、われわれの製品を生活必需品とは考えず、より必要に迫られたことにお金を使わねばならかったのです。
疑いなく、この継続的な価格上昇が不況をもたらす元凶となっていました。価格上昇は日本だけに限られたことではありませんでした。世界中である程度の価格上昇はあったのです。しかし、例えば石油価格をみると、全ての原油を輸入しなければならない日本で、とりわけ大きく上がりました。石油価格の上昇がわれわれの原材料コストに影響しました。電気をつくるのに石油が使われるため、電気代も大きく上がりました。労働者は賃上げを要求しました。全ての生活必需品が値上がりして、主婦たちは家計のやりくりが出来なくなっていたのです。これらの全てがわれわれの製品のコストに影響しました。
自分のこれまでのビジネスを振り返って、数字を比較するとショキングです。50年代、輸出モデルを買うときに、HOの中型スティームロコで、10ドルを超えるものはありませんでした。たしか、一番高いのは2-6-2プレイリーで輸出価格はおおよそ9.50ドルだったのです。エレクトリック・タイプのインタアーバンは、シングルルーフがわずか8ドルで、ダブルルーフが9ドルでした。今日、同じタイプのインタアーバンは70ドルから80ドルの間です。何と20年で10倍になったのです。
私の再生産の記録をみるだけでも、とんでもない数字がわかります。オーストラリア・プロトタイプのベイヤー・ガーラット・ロコがよい例です。1966年の初回製造でわずか48ドルだったものが、数年後には102ドルとなり、1981年の第3回製造では308ドルになりました。15年で6倍に増えています。
私の工場で最初に作られたカブースは、D&RGWのHOn3で、価格は500台の注文で1台につき3.10ドルでした。60年代にはカブースは平均で3ドルから4ドルになり始めました。70年代初めに注文が押し寄せていたころ、われわれは1,000から2,000台を、8.50ドルから10ドルでこなしていました。1978年の最新のものは、CB&Qのスティールカブースで、31ドルで売られました。これも20年で10倍、というわけです。
同様に、客車の製造ももの凄い価格上昇を見せました。ディーゼルについていえば、1966年に作られたカウ・カーフは、1台11.60ドルでした。1967年から1971年の間に作られた、1,750台という大量のRS-1は、14.00ドルから15.50ドルでした。しかしこれが再生産されたとき、コストは51ドルとなり、現在、通常のディーゼルは1台おおよそ100ドルで輸出されています。
こういった、日本の鉄道模型業界の苦しい状況の原因はいったん置いておくとして、韓国が鉄道模型の生産地として、突然開花した、という事実があります。功績は認めねばなりません、その発展は目覚ましいものでした。
しかしながら、これは実に皮肉なことだと思わざるにはいられません。最初に彼らに教え、助けたのは日本人なのです。その彼らが強力な競争相手になるかもしれないのです。われわれが親切に餌を与えていた痩せ猫が、今やわれわれを食ってしまうかもしれない虎になるかもしれない、私と仲間の模型メーカー達が危機感をつのらせるのも無理はないのです。
韓国メーカーは実際に有能です。彼らは熱心にビジネスを学び、喜んで長時間働き、安価な労働力を豊富に持っています。そして、日本のメーカーにとって不利なことに、韓国製品の多くは、米国に関税なしで輸入されるのです。
しかし、韓国には、完全な成功を妨げる、いくつかの課題がありました。一つは徴兵制です。若者は一定期間、軍隊で働かねばならず、これによって男性の労働者は長く工場にいることができないのです。加えて、多くの労働者は高い賃金を求めて次々と仕事を変えるため、結果として、製造されるモデルは、均一のクオリティを欠くことになります。ほとんどのアメリカのインポーターはこのことを認識するようになりました。
ある種の製造手法は本当にずさんです。4年前にソウルの工場を訪れたとき、私は工員さんがハンダ付け後の半組み立てのブラスを、すぐに洗わないことにびっくりしました。この基本的な作業をやらないと、表面に白い粉状のフィルムが残って、次のハンダ付けが難しくなります。
同様に、パンタグラフは、鉄製のスプリングを付けたまま、酸洗いされていました。これだと数回上げ下げしただけで、スプリングが簡単に壊れてしまいます。こういった製造手順は、初歩的な知識すら欠けていることを示しています。このことだけをみても私は、韓国業界とのビジネスの関係を、安価で、シンプルで、動かない部分のパーツの、純然たるサプライヤーにとどめておこうと思うのです。実際、彼らの小さなキャスティングは、日本で同じものを調達する場合の5分の1から10分の1なのです。
そしてさらに安く、豊富な労働力を求めて、私は香港の会社、それから中国の会社にすらアプローチしました。残念ながら、われわれの部品を使って、香港で組み立てられたサンプルモデルは、許容レベルを下回るもので、がっかりされられました。中国についていえば、鉄道模型はいまだ未知の世界であり、現時点では、簡単な組み立てですら、彼らに教え込むのには多大な時間と労力がかかりそうでした。
決して楽しいトピックではありませんが、いわゆる「不況」について、コメントさせて下さい。本当のところ、それはどういう意味でしょうか。最もひどい状況になったとしても、全てのモデルメーカーが倒産するわけではありません。いくつかの、元気ある、うまく運営されているメーカーはいつだって生き残るのです。それは、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」で発表した「自然淘汰」といっていいのかもしれません。私自身そう思いますし、何とか生き残りの1つになりたいと思っています。
私はまた、モデルビジネスは決して滅びないと確信しています。今後の新しい道すら見えます。例えば、ブラスモデルには2つの方向があります。つまり、HOスケールからの、拡大と縮小です。成功かどうかをコメントするにはまだ早いのですが、質の高いNゲージのブラスモデルが登場しています。Oゲージモデルの需要は、以前とかわらぬ力強さを維持しています。Sゲージですら、現在、人気の兆候がうかがえます。LGBの線路を走る屋外モデルのプロジェクトも、間もなく実現するでしょう。
さらに、輸出モデルのメーカーは、米国型車両にみられる豊富なバラエティを享受することができます。日本型に特化しているメーカーが直面している状況に比べると、何と恵まれていることでしょう。日本の型プロトタイプには新しいものがほとんどないのです。
言うまでもなく、この国の鉄道システムを国鉄が独占していることが、車両のバラエティが限られていることの原因の1つです。日本型モデルのメーカーがフラストレーションをためていることは、有名なD-51蒸気機関車の扱いをみれば明らかです。同じD-51を巡っていったい何社が競合していることでしょう。新しい車両が現れるたびにいつも同じように、組立図の争奪戦を目にするのです。
そして狂気は市場にまで続きます。彼らのモデルが完成して文字通り同時に発売され、これが過度の競争を生み出すのです。こういったやり方では、決して健全なビジネスとはなりえません。日本型モデルのメーカーは、さらにもう1つのシリアスな問題に対処せねばなりません。HOスケールはそれ以上大きくできないのです。ますます多くの日本人が、狭いアパートに住むようになっています。いくつかのアパートはあまりに小さくで、たびたび「ウサギ小屋」と呼ばれます。そこの住人にとって、Oゲージモデルは、飾りにする以外には、購入を検討する対象となり得ないのです。
今日、大量注文がないことは、大きなチャレンジを意味します。今後は、モデルの買うのは、真のモデル愛好家、ということになります。彼らの厳しい目に耐えるには、非常に高いクオリティが必要になります。われわれのスキルを、さらに高い次元に高めねばなりません。それは簡単ではないことです。今でさえ、HOの客車にすら、床下ディーティルのために20以上のパーツが使われており、Oゲージに比べても遜色ないものになっているのです。
しかし、より高い品質のものを作り出すことが簡単ではない、とはいえ、不可能である、ということではありません。方法は常に存在するのです。最近、私はエッチングパターンをつくるのに、コンピューターを使ってみて、その精密さと正確さに驚きました。残念ながら、小さな数量のものにこれを使うには、まだ値段が高すぎるのですが。いずれにしても、クオリティのアップは、何としても成し遂げねばなりません。そして、モデルメーカーは生産数量の小さなものを扱うことになるため、それぞれの新しい、より優れた製品のコストは必然的に高くなります。
そのような価格上昇がもたらす課題と対処するために、現在ディストリビューターに認められているマージンは、再考されるべきであり、現在の流通の方法は、合理化によってコストセーブができないかどうか、徹底的に検討されねばならないのです。今こそ、売り手と買い手が、対決するのではなく、協働すべき時なのです。これは私の心からの願いです。
おそらく、輸出メーカーとインポーターの間の、想像上の会話は以下のようなものでしょう。電話が鳴ります。
メーカー:このタイプの実物の機関車は、米国で何台使われているんだい?
インポーター:ええと、おそらく500台くらいだね。
メーカー:で、アメリカには州がいくつ?
インポーター:50だ。
メーカー:ええと、そうするとあなたの注文の200台というのは、1つの州につき、4台ということだよね。
インポーター:そうだとしても、価格が高くちゃ、売れない。値段を下げてもらわないと。
メーカー:(くたびれたため息をついて)あなたの「値段を下げろ」というのは聞き飽きた。それがあなたの国歌のように感じ始めたよ。
われわれは、かようなビジネス・ディスカッションをさらに続けなければならないでしょうか? そろそろ新しい視点で物事をみるときではないでしょうか? まさに今、われわれは何かをしなければならないのです。
このような問題を別にしても、モデル製造は、心理的にハードジョブだとつくづく思います。私は常に、自分の下した決定が、趣味を愛するがゆえのものではなかったか、確固たるビジネスの方針に基づいたものだったのか、とジレンマを感じます。ビジネス・ディスカッションにおける誤った行動は、失敗につながるのです。
誰かが言ったことがあります。「あなたは模型を好きでなければならないが、愛するようになってはいけない」。これはビジネスの賢明なやり方です。日本でよく言われるビジネスの警句とよく似ています。曰く「芸者ハウスのマスターは芸者を愛してはならない」。(訳者注:原典となることわざがあるはずなのですが、みつけられません)。
少量生産による将来のモデルを考えてみましょう。もし私がそれに取り組むとすれば、それらは数量が決して30台を上回らない、超精密モデルとなるでしょう。私のこれまでのビジネスセンスは脇に置いて、完璧を達成するためにコストはいくらでもかけられる。同様な願望は、全ての真のモデルメーカーの心にあるとことでしょう。
さて、この本の内容です。私の会社は、その立ち上げ時から、製造して輸出した全ての様々なモデルのサンプルを1台ずつ保存してあります。われわれのショーケースには1,000台以上のモデルがあります。多くのホビイストがやってきて、ときに数時間にわたって、これらのモデルを眺めて楽しみます。もちろん、これらは売り物ではありません。そうだとしても、それらのモデルをゆっくりと眺める機会を持つことで、彼らは大いなる満足感を得ることができるようです。
その感覚はよくわかります。私自身、それぞれのモデルには心から愛着があります。それぞれが呼び起こすさまざまな思い出だけで、この本がほぼいっぱいになりそうです。そしてときに、これらのモデルに囲まれて、われわれは本当に幸せだと思うのです。この仕事に従事することは、2重に恵まれているのではないか。このビジネスはわれわれに、ホビーの楽しみのみならず、生計の手立てすら提供してくれるのです。
私は以前から、われわれのショーケースのサンプルが、モデルを愛するより多くの人々に見てもらえないことを残念に思っていました。しかし、今、本の形ではありますが、それが可能になりました。しかも、海外の方にも見ていただけるのです。
以上が「アート・オブ・ブラス」を私が出版した理由です。この本がコレクターの皆さんのお役に立つことを祈っています。販売している製品は含まれていないので、この本は、「カタログ」というよりはある種の「目録」というべきものでしょう。
「アート・オブ・ブラス」の第1巻が現実のものになりました。今後、他のメーカーの製品が掲載された巻が次々と続くことを期待しようではありませんか。これがなされれば、将来の世代に、ブラスモデルの驚くべき全容を提供できると、私は強く信じています。これらのブラスモデルは、輝かしい記録、つまり、われわれの時代に成し遂げた、われわれの貢献の内容を、後世に伝えるものなのです。
熊田晴一
(アート・オブ・ブラス第1巻 序文 おわり)