「なにするっていうんだ?」
「未玖は私のこと刺すって言うんです」
「刺す?」
その声は平坦なものだった。顔をあげ、私は鋭角な顎のラインを見つめた。
「ほら、いかにもナイフとか隠し持ってそうでしょ。それで結月のことグサッて刺すの」
「どうして?」
「どうしてって。その、恋愛感情のもつれってやつでしょ。泥亀は結月のこと好きだけど、結月は、――ううん、ま、あんな気色悪い奴なんて眼中にないんだし」
外に出ると風が強く吹いていた。空は冴え渡り、そこに浮かぶのはあらかた欠けた白い月だけだった。
「恋愛感情のもつれ、ね。よく聞くな、そういうの。ニュースとかで言ってる。でも、本当にそれだけの理由で人を刺したりするんだろうか」
「は? どういうこと?」
「前にも言ったけどさ、人間が行動する動機ってのはひとつとは限らないんだ。幾つかの動機が重なって行動するものなんだよ。まあ、ニュースなんかじゃ単純化されて報じられるけど、すくなくとも小説を書く者はそういう視線を持ってるべきだ。表面的にわかりやすいことだけじゃなく、半ば隠されたようになってる動機を想像するんだよ」
「じゃあ、泥亀が結月を刺す場合、他にどんな動機があるっていうんです?」
「それはわからないな。それに落合さんを刺すとは思えない。ま、そうはならないだろうけど、もし彼が刺すとしたら、」
そこまで言って高槻さんは頭を振った。
「こんなこと話すのはよくないな。大丈夫、彼は誰も刺さないよ。だいいちナイフだって持ってないだろう。これは篠田さんの妄想にすぎない」
「でも、気をつけた方がいいのはほんとですって。思い詰めた感じがぷんぷんするもん」
「それも妄想の一部かもしれない。人は他者の感情を本当には理解できないんだ。外形的に見えるものから想像するくらいしかできない。それに関係性も影響するしね。篠田さんの目には一定のフィルターがかかってるんだよ。それを通すからそう見えるだけかもしれない。まあ、思い詰めてるにしても小説のことって場合もあるだろ? そういう意味じゃ、次回まで持ち越せてよかったのかもな。新井田さんと二人がかりで言えばさすがになんとかなるだろう」
未玖は肘で押してきた。唇は歪んでる。
「ね、あんたと二人きりのときもこんな感じなの?」
「え? ――まあ、そうだけど」
「ふうん。こんなに理屈ばっかりじゃ、いい雰囲気にはなれそうもないわ。結月も大変ね」
ホームは少しだけ混みあっていた。顔をあげ、未玖は瞼を瞬かせている。
「そうそう、あんなアホのことばかり話してて、大切なの忘れてた。あの、順子さんは大丈夫なんですか? 入院してるって聴いて、私、びっくりしちゃって」
「ああ、とりあえずは平気みたいだよ。もとから心臓が弱いんだ。それで入院してるだけだから」
滑るように電車が入ってきた。振り返りつつも未玖はしゃべってる。
「明後日には戻ってくるって言ってましたよね? 私、次の講義の後に行きます。彼を連れて。順子さんに紹介したいんです。おとなしくしてるから行ってもいいですよね?」
「もちろん。きっと喜ぶよ」
「じゃあ、絶対行きます。そう言っといてください」
大きくうなずき、未玖は閉まりかかったドアに駆け込んだ。高槻さんは肩をすくめてる。
「まるで嵐だな。頭の中を掻き回された気分だよ。――ところで、篠田さんは知ってるの?」
「え?」
「ほら、君の家のこと」
電車が来た。シートは埋まっていて、私たちは入り口近くに立った。痺れをとるように高槻さんは手を振っている。
「ひとつ持ちます」
「ん、そう? じゃ、これを」
百合はそろってうつむいている。持ち直そうとしたときに囁き声がした。
「落合さん、そう傍で嗅いじゃいけない」
「え? どうしてです?」
「いや、『それから』にこういうシーンがあるんだよ。台詞もほぼそのままだ。百合に顔を近づける三千代に代助がそう言い、三千代は「なぜ」と訊く。――だけど、新井田さんは変な気の遣い方をする人だな。これじゃまるで、」
高槻さんは口をきつく閉じた。暗い窓には二人の顔が映ってる。
「ああ、そうだ。さっき訊いたこと、篠田さんは知ってるの?」
「すこしは。細かいことまでは知らないはずですけど」
「そうか」
電車は大きく揺れた。私は手摺りにつかまり、うつむいた花を見つめていた。
「あの、考えてくれました?」
「ん?」
「この前言ったこと。私、明日で十六になります」
高槻さんはなにも言わなかった。電車は停まった。
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