小説『stray sheep』先頭へ

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 九月の半ばに私たちは鎌倉へ行った。そのときも高槻さんは小説の話をしていた。

 

 

「ああ、もう秋の空になってるな。ほら、あの雲。あれはまさに『迷羊ストレイ シープ迷羊ストレイ シープ。雲が羊の形をしている』だ」

 

 

 風が強く、私はスカートを押さえていた。水平線の上には大きな船が浮かんでる。それはぴんと張った糸に誰かが乗せたおもちゃのようだった。現実にそこにあるとは思えなかった。

 

 

「そういえば、ここも漱石先生に縁のある場所なんだよ。『こころ』の舞台でもある。たしかはじめの方に『私が先生と知り合いになったのは鎌倉である』って書いてあったはずだ」

 

 

「だからここに来たんですか?」

 

 

「ん? そういうわけじゃないよ。どこかに行きたかったんだけど、どこがいいかわからなかったんだ。――その、あまり近いとこだと知った人間に会うかもしれないだろ?」

 

 

 子供が脇を走り抜けていった。空の低いところをグライダーが飛んでいる。高槻さんは手を握ってきた。

 

 

「どこだっていいです。それに、もっと小説の話を聴かせてもらいたいです」

 

 

「ほんと?」

 

 

「ほんとです。私も書きはじめたからいろいろ知りたいんです」

 

 

「うーん、そう素直に言われると困るな。でも、そうだ、前に新井田さんが言ってたろ。『恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命』って。あれを聴いたときは危うく吹き出しそうになった。あの人はあれで洞察力があるんだろう。君の中に恐れぬ女を見たんだから」

 

 

 海を離れ、私たちは路地へ入っていった。そこには風もやって来ず、人もいなかった。

 

 

「そんなことないって思ってるんだろ? でも、君には怖れないとこがあるよ。だから大胆で、はっきりものが言えるんだ。その後に言ってたのもまさにぴったりだった。久しぶりに読み返してみたんだよ。そこには風のように自由に振る舞えるのは先の見えないくらい感情が一気に湧き出るからって書いてあった。それに感情の重みに蹴躓きそうになるともね。それだって君に似てるって思った」

 

 

「私はそんなに自由じゃないし、感情も強くないって思いますけど」

 

 

「そう? じゃあ、そういうことにしておこう。ああ、それに『純粋な感情程美しいものはない。美しいものほど強いものはない』ってのもあったな。これは『三四郎』の『それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって』に似た文章だし、言おうとしてることも似てる。そこを読んだときも君を思い出した。――そういや、この話にも鎌倉が出てきたな。『須永の話』って部分だ。さっきの『恐れないのが』ってのはその須永の言葉なんだよ。彼には許嫁のような千代子って従妹がいる。須永はその千代子を『詩人』って言ってるんだ。で、自分のことを『哲人』としてる。まあ、新井田さんの意見は違ってたけど先のことを考えすぎて怖れるってとこはそうなんだろう」

 

 

 路地はゆるやかに曲がりながらつづいてる。どこへ通じてるのかわからないまま私たちは歩いていった。

 

 

「須永は千代子を愛してはいるんだ。ただ、同時に拒絶もしてる。彼は漱石先生の書く人物らしく悩みやすい男なんだよ。自由に振る舞う千代子に惹かれながら軽蔑に近い感情も持ってる。でも、それも怖れから生まれたものなんだろう。ほら、気になる相手って大きく映ることもあれば、小さく見てしまうこともあるだろ? そのままを見ることができないんだ。これは僕たちが普通にしてることだと思うよ。塩の結晶に包まれた枝をダイヤモンドと見間違うこともあるし、ダイヤモンドを石ころのように扱うことだってある。きっと強い感情によって正常な判断ができないんだろうな。いや、そもそも僕たちはそのものを見るなんてできないんだ。どんなものにだってフィルターをかけてるんだよ。だから経験を書くときは気をつけなきゃならない。やはり感情の抑制が必要ってことになる」

 

 

 小さなお寺の前で高槻さんは立ちどまった。門の中は鬱蒼と繁り、その間を細い石段がつづいてる。消えない湿気にさらされているからか踏み段は濡れてるようにみえた。

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。