お店は徐々に空いていった。光も弱くなり、カウンターは白というよりは灰に近い色に覆われはじめた。その中で百合だけが輝いてみえた。
「じゃ、落ち着いたようだから休ませてもらおうかしら。――あら、しゃべるのに夢中で食べてないのかと思ってたけど減ってるじゃない。どう? 美味しい?」
「もちろん美味しいに決まってるじゃないですか。ね、先輩、美味しいでしょ?」
「はい、ほんとびっくりするくらい美味しいです」
「ありがと、俊希くん。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないですって。この人は思ってないことなんて言えない人ですもん。――あ、そうだ。今度バスケ部の子たちと一緒に来ようよ。みんな喜ぶんじゃない?」
「そうだな。あの、ちょっと騒がしい連中ですけどいいですか?」
「そんなの全然かまわないわよ。それにしても、ほんといい子たちね。昴平が学校に教えに行くなんて聴いたときはどんなものだろうって思ってたけど、こういう子たちが来てくれるようになっただけでも感謝しなきゃ。――うん、ということは、そっちの先生様にも感謝すべきってことかしら?」
「いや、そう言っていただけて光栄です。その、ありがとうございます」
笑顔のまま順子さんは出ていった。高槻さんは窓の外を見つめてる。
「いやぁ、君のお母さんは会うたびに緊張させられるんだよな。圧ってわけじゃないけど、そういうのを感じるよ」
「きっと後ろ暗いことがあるからそう思うのよ。言ってたもん、あの先生は新婚旅行に行くとか言わないで昴平を連れてっちゃったって。先生ってのはもっと正直じゃないといけないってね。私、順子さんと先生の悪口で盛り上がったんだもん。それから仲良くなったんだから」
「どんな話で仲良くなってるんだよ。しかし、こりゃ会合とかで使う回数を増やした方がいいかもしれんね。ご機嫌取りを積極的にする必要がありそうだ。篠田たちに負けてられないもんな」
高槻さんはまだ外へ目を向けている。二人の声は耳に入っていないようだった。
「あ、そうだ! 正直っていえば『三四郎』にそれについての言葉があったでしょ。私、そこ好きなんだけど。どういうんだっけ? 『それ自体が目的で』みたいなやつ」
「ああ、あったな。えっと『それ自身が目的である行為ほど正直なものはなく、正直ほど厭味のないものはない』ってやつじゃないのか?」
「そう、それ。その目的を愛に置き換えたら美禰子の行動はどう映るかって、昴平さん言ってたでしょ。はじめにそれ聴いたとき、私、自分でもびっくりするくらい感動しちゃったの。それにね、小説ってそう書くべきなんだってわかったように思えたの。なんていうのかな、誰かのことを書くときに、その誰かについてだってわからなくてもいいんだってわかったの」
「ん? ん? 誰かのことを? わからなくてもいいってわかった? 篠田、そりゃ小説を書く人間の言葉じゃないぞ。まったく意味がわからない」
「そう? ええと、さっきのは広田先生の台詞でしょ。それもとくに美禰子のことを言ってるんじゃなくって、普通のっていうか、一般的なことを言ってるんじゃない。でも、全体を見るとなんとなく美禰子について言ってるってわかるの。そういうのってすごくいいって思った。私もそういうふうに書いてみたいって」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「それにね、それって昴平さんがよく言ってた、底流として存在してるものなんじゃないかなって思ったの。優れた小説には無駄な部分なんかないって言ってたでしょ。私、そういうのほんとに書いてみたい。誰が言う台詞にも、手や目の動かし方にも意味があって、それが結局はひとつのものを指してるって感じのを」
細かくうなずき、先生はコーヒーを啜ってる。目はカウンターへ向けていた。
「だとよ、高槻くん。いや、ほんと素晴らしいよ。篠田がそう思えただけでも価値はあったってわけだな」
「そうですね。篠田さん、ありがとう。ああいうのをやってよかったよ。最後があんなふうだったから気になってたけど、ほんとよかった」
「ああ、そういうこともあったわね。あれはほんとネチっこい男だわ。考えただけでうんざりしちゃうくらいよ。ところで、泥亀、――ううん、亀井は納得したんです?」
「ん? まあ、納得はしてないんだろうな。なに言っても暗い顔して返事どころかうなずきもしなかった。しかし、あれに関しちゃ議論の余地はないね。理由は高槻くんが言った通りだ」
「じゃあ、いっそのこと削除しちゃえば? 本人も納得してないって言ってるんだから、そうしちゃえばいいじゃない」
「いや、そういうわけにはいかんだろ。こう言うのはどうかと思うが、そんなことしたらどうなるかわからないじゃないか。――その、今日話してて思ったんだが、なんだか妙に思い詰めた感じがするんだよ。ちょっと心配になるくらいだ」
会計をしに高槻さんは出ていった。未玖は先輩の腕をつかんでる。
「ん?」
「ほらね。そういう感じなの。だから結月は私たちが守らなきゃならないってわけ。わかった?」
「ああ、そうだな」
高槻さんは窓の外を窺うようにしてる。私も目を細めて見た。でも、なにを見てるかはわからなかった。
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