「あの、」と未玖が言った。姿勢を正し、ナプキンを口にあてている。
「漱石って童貞なんですか?」
「まさか。結婚してるし、子供もいる」
「でも、童貞がどうのこうのって言ってたでしょ」
「いや、俺が言ったのは童貞っぽさがあるってことだよ」
「童貞じゃないのに童貞っぽいってどういうことです? あ、女性経験が少ないってこと?」
そう言いながら未玖も首を伸ばした。順子さんは肩をすくめてる。
「そうだな。ま、漱石の女性経験は少なかったんだろう。そういう理由で男女関係が熟れたものにならないんだ。いや、そこがまた漱石の魅力だと思うんだよ。彼が書く男女関係には狎れ狎れしさよりも対決的なにおいがする。――うーん、そうだなぁ、『三四郎』にしたってそうだろ? 冒頭のシーンに汽車の女ってのが出てくるじゃないか。あそこはコミカルに書かれてるけど実態は対決だ。女に『度胸がない』とやり込められるのは三四郎の負けってことだよ。で、その後にもっと手強い相手に出会うんだ。単純ならざる美禰子にね」
私はそっと首を曲げた。先輩は居心地悪そうにしてる。その奥には百合の花が見えた。
「まあ、三四郎が童貞なのかはわからないが、それに近くは書いてあるよな。汽車の女には子供がいるんだから、その、なんだ、経験者なわけだ。ただ旦那は大陸に行ってて不在なんだ。そういう時代的な背景をうまく使って漱石はあの女を誘惑者として出してるんだ。しかし、三四郎はそれを拒絶する。なぜっていうと怖れたんだな。うん、ここにも恐れる男がいたな。ちょっとした発見だ」
新井田先生は何度もうなずいてる。腕を組み、未玖はスツールにもたれかかった。
「ん? どうした?」
「ううん。その怖れってのは私が書いてるのにも必要な気がして。ほら、経験したことによって内容が変わったんじゃないかって言われたじゃないですか。だけど、しちゃったことは取り消せないでしょ」
「まあ、そうだが、それがどうしたっていうんだ?」
「うーん、よくわからないんですけど、三四郎が童貞っぽいのはなんとなくそうだなって思うんですよ。それがあの話には必要だったんだろうなって。で、そうなると私の書いてるのにも季里子の処女性ってのが重要に思えて。――そうか、ほんとは季里子が怖れるとこを書きたかったんだな。自分の中にあるもの、だけど気づいてなかったものを目の前に見せられて怖れるとこを。それが弱くなっちゃってるってわかったんだけど、――ううん、後悔してるとかじゃなくって、全然その逆なんだけど書いてるものについてはどこが問題なのかわかった。うん、これも経験しないと気づけなかったことだわ」
「こっちの方こそよくわからんが、篠田が問題点を理解できたってことでいいのかな? 高槻くん」
「そうですね。ただ少し補足しておくと、篠田さん、漱石の童貞臭というのは人間理解の仕方からきてると思うんだ。彼は小説を書くにあたって、地べたより少し高い位置から見ようとしてたんじゃないかな。つまり経験から考えるのではなしに人間自体の本性を見ようとしてたって思うんだ」
天井を見あげ、先生は顎先をつかんだ。目は忙しなく動いてる。
「なるほど。じゃ、君はそういった人間理解の方法が童貞臭に繋がってるっていうんだね。でも、それが男女関係を熟れたものでなく対決のようにしてるのはなぜだ?」
「たぶんですけど漱石のような理解だと登場人物は狎れ狎れしくできないんじゃないですかね。彼の理解においては関係が深くなるほど衝突が生まれるのが人間ってことになるのかもしれません。それは漱石自身にとっても深い関係は対決か、それに近いものだったからじゃないでしょうか。そして、そこから逃れようとすると広田先生や『こころ』の先生のようになる。『虞美人草』の甲野さんもですね。甲野さんは義理の母や妹という関係が深くて当然の者と暮らしながら、きちんと関わろうとしてないじゃないですか。まあ、彼は広田先生のようにならない可能性もありますが、それは人物配置による歪みから生じたもので同じにおいはします」
「うん、それは『それから』の代助にもある程度は当て嵌まるかもしれないね。半ば隠遁者じみてるという意味で。ただ、君の言う人物配置による歪みが自然へ回帰させたってわけだ。そうなると漱石は対決的な関係を書きつつ、そこから逃れた人間、もしくは逃れようとした人間も書いてたってことになるね」
「そうです。僕はそれも漱石が少し高いところから人間を見てることによって起きたように思えるんです。地べた――つまり自己の経験でなく、人間一般について書こうとした結果なんじゃないかとね。経験にしたがえば他者との関わりには狎れ狎れしさが出てくるでしょう。ただ、そうはせずに人間の本性で書こうとした。そうなると彼の場合は対決のようになってしまうんじゃないですかね。で、それを嫌う者は隠遁者になるってわけです。仰るように代助は半ばそういう立ち位置にいましたが、三千代や平岡によって、いえ、父や兄によってもですが対決の場へ引き出されたわけです。結果はああですけどね」
スプーンを持ったまま未玖が手を挙げた。唇は尖ってる。
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