「この自己をコントロールするというのは創作において最も重要なことのひとつなんです。生活してると様々な刺激があって、心が乱れることもあるでしょう。ただ、小説を書くときには常に一定の状態を保ってないといけません。『三四郎』にもそんなことが書いてありましたね。原口さんの台詞です。モデルも絵描きも毎日気分が変わるものだが、アトリエに置いてあるものなんかによって心が一定すると。これは逆にいうと、心を一定にできなければ絵なんか描けないってことですよ。それは小説も同じなんです。――ここでまた経験の話に戻します。亀井くん、君はそうじゃないと言ってましたが、あの小説はあらかた経験に思えます。しかも君はそこへ希望を入れ込もうとした。しかし、希望は現実世界で叶えるべきであって、創作ですることじゃありません。起こったことを書くのはまあいいでしょう。ただ、起こって欲しいこと、しかも、自分に都合よく起きて欲しいことを書くのは危険なんです。登場人物は書き手の手駒じゃありません。創作上のものであっても生きた人間なんです。それを無理に動かそうとすると反動が出ます。その反動は自分に跳ね返ってくるんですよ。完全に創作上の人物であっても書き手の思う通りには動いてくれないものなんです。それはみなさん全員がそれこそ経験したと思いますが、どうでしょう? 同じことを現実に存在する人間へ当て嵌めたら、思う通りに動いてくれないことに苛立ちを覚えるんじゃないですか?」
私はそっと首を曲げた。青白くなった顔は目だけが鈍く光ってる。
「それに君はモデルの人物が隠したがってることをそのまま使おうとした。同情が愛へ変わるのを書くつもりだったのでしょうが、それだけだったらそのまま書く必要はなかったはずです。では、なぜそう書いたのか? それはシグナルを出すためですよね? 自分は知ってると。言い訳にもなりませんが僕も途中まで気づかなかったんです。なんとなくそうじゃないかと思ってましたが、はっきりとはわからなかったんです。ただ、知ったからには公表させるわけにはいきません。いくら高校の部誌とはいっても不特定の人が読むものです。それに当の本人、モデルとなった子には手渡されるものなんですから」
未玖が腕をつかんできた。私は上から握りしめ、薄く笑ってみせた。大きな瞳は充血し、行き着く先が見つからないように動きまわっている。
「これでも納得できないのでしょうが、この場で言えるのはこれくらいです。亀井くん、本当にすまないと思ってるんですよ。もっと早い段階で、もっとわかりやすく伝えとけばよかったと反省しています。しかしですね、これからも小説を書こうと思うならこのことを常に念頭に置いてください。みなさんもですよ。純粋に想像で書こうとしても経験は出てしまうんです。僕がそうであるようにね。そしてそれは書き手を苦しめます。僕は自己の経験が小説にあらわれるたびにすまない気分になるんです。意図せず登場してしまう子が死後も傷つけられてるように思えるんですね。僕が傷つけてるんです。書くという行為にはこのように他者を深く傷つける可能性があるんです。想像で書いてたってそうなるんだから経験を書くとなればなおさらです。まして希望を小説で実現させようとしたら深刻な傷を負わせかねないんです」
ゆっくり立ちあがり、新井田先生は教室全体を見渡した。目は糸のようになっている。
「うん、まあ、なんだ、亀井、これでも納得できないなら後でもう一度話し合おう。しかし、結果は変わらんぞ。理由は高槻くんが言った通りだ。ま、もうちょっと言い方があるとは思うがその通りであることに変わりない。――じゃあ、これで終わりにしよう。最後はちょっと揉めたが、今日で高槻くんは最後になる。花束は渡してあるから、そうだな、全員の温かい拍手で締め括っとこうか」
新井田先生は曖昧な笑顔を取り戻しつつあった。でも、次の瞬間に眉をひそめた。
「先生も似たようなことしてたじゃないですか!」
「は?」
「同人誌に告白を載せたんですよね? 同じってわけじゃないけど、僕も似たようにしただけです!」
ちらっと横を見て、新井田先生は肩を落とした。そのとき「亀井!」と声がした。
「もうよせよ。お前はどうかわからないけど俺は納得した。これ以上みっともない真似はするな」
びくっと身体を震わせ、亀井くんはうつむいた。他の者たちは真顔で正面を見つめてる。風がそれらすべてを揺らしていた。
こうして、高槻さんの講義は終わった。
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