それから川淵さん、私、未玖とつづいた。太陽は高いところへ移動し、レースのような雲を輝かせている。未玖は指摘されたことに反論を試みた。でも、やんわりとではあったものの、ことごとく否定された。
「いや、これは何度も言ったことですが、やはり経験と想像の問題になるのでしょう。いえ、篠田さんのはほとんどが想像の産物ですよね。それはわかってるんです。でもですね、そう、季里子が父親の行為を覗き見た後の反応ですね。最初のときはこれでいいと思います。ただ回数を重ねるうちに起こる変化が急なんです。最初にあった抵抗感が突然薄れて、というか、まったくなくなってしまった印象があるんですよ。もしかするとこれは篠田さん自身に大きな心境の変化があったからかもしれませんが、それを気取られてはいけませんね。物語の展開としても問題ありですよ。自己の経験によって登場人物の心情を変えるのはよくありません。篠田さんと季里子は別人格なんですからね」
「じゃ、私も書き直しってことですか?」
「そうですね。ただ全体としてはまとまってるのでモノローグを弄る程度でいいんじゃないでしょうか。彼女がどう感じるか、どう考えるべきかをもう一度洗い直してみてください。結末を変える必要はないから、そこに集中すればもっとよくなりますよ」
わからないように未玖は脚を蹴ってきた。いつもよりちょっときつめにだ。
「まあ、最初に読ませてもらったときに比べたらずっと良くなってるんだから、あとすこしだけ頑張ってみましょう。もう一度季里子の気持ちになって全体を読み直してください。そうすれば自ずと直すべきところが見えてくるはずです」
「はぁい、わかりましたぁ」
「はっ! 不満がありありとわかる良い返事だな。篠田、ま、そういうわけだからもうちょっと頑張ってくれよ。じゃ、これで最後だな。亀井のだ。――うん、この前言った通りにしてきたな。かなり大幅な直しが入ったが前より良くなったと思うぞ。いや、亀井には全面的に書き直した方がいいって言ったんだ。内容としちゃ悪くなかったが、どうも、その、個人的な思いが前へ出すぎてるように思えたからな」
しばらく返事はなかった。首を伸ばし、先生は眉をひそめてる。
「亀井、聴いてるのか?」
「はい。――でも、それは誰の意見ですか?」
「あ? もちろん俺の意見だ。高槻くんと話し合ってのものだが俺もそうした方がいいって思ったんだ。だから書き直せって言った。それはお前も納得してたろ」
「納得なんてしてません。もう少しで書き終わるっていうのに、なんで僕だけまったく違う話みたいにしなきゃならないんですか」
「別にお前だけそうさせたわけじゃない。みんなは書き直したのを提出してたんだ。お前がまったくやってなかっただけだろ」
「でも、話を別物みたいにさせられたのは僕だけですよね?」
「落ち着けよ、亀井。お前の気持ちもわからないではない。でもな、前のまま部誌に載せるわけにはいかなかったんだ。どうしてかはお前にだってわかるだろ?」
「わかりません。僕は前の方がよかったんです。こんなふうにしたら意味がまったく違ってしまいます」
ガタっと音がした。一瞬だけ目に入った顔は青白くなっている。ただ、立ちあがっていたのは横森さんだった。
「あの、ちょっといいですか?」
「ん? どうした、横森」
「よくわからないのに口を挟むのもなんですけど、僕も気になってたんです。どうも亀井にだけ駄目出しが多いっていうか、当たりが強いってふうに。それにどういう理由で、どんなとこを直させたんです? その辺のことを説明してやればいいんじゃないですか? 納得できるように」
「いまここでか?」
「そうですね。亀井は納得できないって言ってるんだし、僕たちもこのままじゃ気持ち悪いですもん」
「納得できるような説明をするわけにはいかないんですよ」
表情を変えずに立ちあがり、高槻さんは頭を下げた。新井田先生は首を振っている。
「亀井くん、本当にすまない。もう少しわかりやすく言っとけばよかったんだ。最後の方で大幅に書き直すのがどんなに嫌なものかは僕だってわかってる。そんなことをさせて本当にすまなかった」
そう言って高槻さんは顔をあげた。頬は平坦になっている。
「しかし、これだけは言っておきます。これは亀井くんにだけ言うのではありません。みなさんにもわかっていてもらいたいことです。正直いうと僕が書いたものにも経験がたくさん入ってます。書いてるとふっとあらわれるんですよ。そして、そのすべてではないにせよ、欠片のようなものを書いてしまってるんです。それくらい僕には忘れたくても忘れられないことがあるんです。これはどうしようもないことなんですね。その経験はべったりとくっついてるんですから。赤黒い血、見ひらかれた目、背中にできた蛇のような傷。――どうです? 僕のを幾つか読んだ方なら、それらが出てきてたのがわかるかもしれませんね。書いた後で気づくんです。そういったのを出してたって。そして、それは僕を激しく痛めつけます。だから僕は優れた小説を書けないんでしょう。コントロールできてないんですね。自己の感情をコントロールできない者に優れた小説など書けるわけがないんです」
額を覆い、高槻さんは顔をしかめた。目は窓の方に向けている。
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