小説『stray sheep』先頭へ

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 黒板に向かい、高槻さんは大きく『われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり』と書いた。それから、全員の顔を見ていった。

 

 

「物語は終わりましたがこれがまだ残ってますね。最後にこの意味を考えていきましょう。それで本当に隅々まで読みこんだことになりますからね。さて、この言葉は前章の終わりに、そして三四郎が最後に聴く美禰子の声として出てきます。すこし前から読みますよ。二百九十ページです。

 

『「結婚なさるそうですね」

 

 美禰子は白い手帛ハンケチたもとへ落した。

 

「御存じなの」といいながら、二重瞼ふたえまぶちを細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気遣い過た眼付である。そのくせ眉だけは明確はっきり落ついている。三四郎の舌が上顎へ密着ひっついてしまった。

 

 女はややしばらく三四郎を眺めた後、ききかねるほどのためいきをかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えていった。

 

「われは我がとがを知る。我が罪は常に我が前にあり」

 

 聞き取れない位な声であった。それを三四郎は明かに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして分れた』

 

 いまの部分から台詞だけ読むとこうなります。まず三四郎が『結婚なさるそうですね』と言い、美禰子が『御存じなの』とこたえます。その後に『われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり』とつづくわけです。これは変ですよね? 『御存じなの』まではいいです。会話になってますからね。しかし、問題の言葉は直前の台詞とまったく繋がってません。じゃあなんなのか? 本文には『聞き取れない位な声であった』と書かれてます。だったらこれは独り言なんでしょうか? ただ『それを三四郎は明かに聞き取った』となってるから口の中でもごもご言ったんじゃないのでしょう。では、はじめにこれを美禰子は聴かせたかったのか、そうでないのか議論しましょう。ええと、そうですね、篠田さん、どう思います?」

 

 

 未玖は窓の方を睨みつけている。そのままでこうこたえた。

 

 

「はい。きっと聴かせたかったんだと思います」

 

 

「それはなぜ?」

 

 

「いかにも美禰子らしいから、かな。だって、ずっと変なことばかり言ってたじゃないですか。『ストレイ シープ』もそうだし、他にもいろいろと。それで三四郎は惑わされてたんですものね。だから、これも同じに思えます。最後まで惑わそうって魂胆なんです」

 

 

「なるほど。では、横森くん、君はどう思います? これはわざとですか? それとも口をついて出てしまった言葉でしょうか?」

 

 

「うーん、わざと言ったように思えますね。っていうか、そうじゃなきゃこんなこと言わなくないですか? 不意に出てくるとは思えないですよ」

 

 

「確かにそうですよね。前もって用意しといたような台詞に思えます。いえ、もちろん漱石は用意しといたんですよ。仮に、とはいってもありえないことですが、これをよし子が言ったとしたらどうでしょう? ちょっと妙ですよね。これは美禰子にしか言えない台詞なんです。では、これがなかったらどうか考えてみましょう。『女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞兼るほどの嘆息をかすかに漏らした』の後にすぐ『三四郎と美禰子はかようにして分れた』とつづいたらどうです?」

 

 

 高槻さんは読むのを待った。そして、なにかを持ち上げるように手のひらをあげた。

 

 

「さっき言ったのと同じです。この一文はあった方がいいか考えるのは書く訓練になるんです。でも、どうでしたか? 謎の台詞がないと味気ないでしょう。それじゃ美禰子らしくないんですよ。篠田さんも言ってましたがこれはいかにも美禰子らしい台詞ですし、これが入ることで二人の別れは完全なものになるんです。では、まとめます。この台詞は三四郎に聴かせるためだったと思う方は手を挙げてください。――うん、全員ですか。ということで美禰子はこの台詞を聴かせたかったということに僕たちの意見はまとまりました。次に議論すべきはこの言葉の意味です。なぜこんなのを聴かせる必要があったのか? これは柳田くんに訊きますね。この台詞の意味はなんでしょう? 美禰子はこう言うことでなにを伝えたかったんでしょうか?」

 

 

「あ、はい。僕には罪の告白みたいに思えます」

 

 

「罪?」

 

 

 そう言ったきり高槻さんは黙った。額に手を添え、顔をしかめてる。

 

 

「ああ、いえ、そうでしょうね。これは罪の告白なんでしょう。それは非常にわかりやすいです。しかし、その場合の罪とはいったいなんだと思います?」

 

 

「はい、あの、三四郎を惑わしたからそれを罪と言ってるのだと思います」

 

 

「なるほど。さっき篠田さんも言ってましたね。それもその通りに思えます。思わせぶりな態度で引っ張り回したので最後になって美禰子はそれを罪なことだったと告白した。そう考えることもできます。他にありませんか? ああ、加藤さんはなにかありそうですね」

 

 

 加藤さんは首を引いている。眉は端の方が下がっていた。

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。