「はい。私は後悔してるのを伝えたかったんだと思います」
「後悔ですか。そうもとれますね。ちなみにこの言葉も聖書からのもので、その妻を奪うため部下を敵陣に置き去りにさせたダヴィデ王が懺悔する件に出てくるそうです。だから後悔というのは元の意味とも合致しています。ところで、そこまで考えて使ったのかわかりませんが、ここにも三角関係があるんですね。ダヴィデとバテシバ、ウリヤの三角関係です。――いや、話が逸れましたね。加藤さん、では、美禰子の後悔とはどのようなものでしょうか?」
「はい。三四郎を愛しきれなかった後悔に思えます。美禰子は三四郎も野々宮も好きだったけど、自分のことを見てくれない野々宮より三四郎へ傾いていった。ただ結婚はできない。だから、二人以外の人を選んだ。そういうことですよね? そういう気持ちだったから教会の前で会ったとき、びっくりしたんだろうし、三四郎の顔を見てすごく後悔したんだと思うんです。結婚はできないけど好きだった人の顔が前にあって、美禰子は自分が選んだことを後悔した。でも、そうは言えない。それで聖書の言葉を呟いた。三四郎にそれだけは、自分が後悔してるってことだけはわかってもらいたくて」
溜息が聞こえてきた。高槻さんは表情をなくしたように立っている。
「うん、なるほど。非常に素晴らしい考察です。前にも言いましたが、これは叶わぬ恋の話でもあるんですね。三四郎からしてもそうだったけど、美禰子にとってもそうなんです。登場した時点――夕暮れの中、赤く染まる池の畔で出会ったときにはもう決められていたことなんです。これは漱石がそう決めたからでもあるのですが、それだけではありません。美禰子に限らず、すべての登場人物には限界が設けられています。それを越すことも可能ではありますが、この筋の運びでそれをやったら駄目なんですね。急激な変化すぎて物語が破綻しかねませんから」
同じ顔つきのまま高槻さんは目を細めてる。背後では雲が風に散らされていた。
「休憩前に僕はこう言いました。もしかしたら美禰子は第四の世界を求めたのかもしれないと。それはまさに限界を越すことなんですね。駆け落ちみたいにして三四郎との恋を押し通すことも選択肢としてはあったのでしょう。それで迷っていたとも思えます。いえ、美禰子の心情は書かれてないのでわかりませんが、そのことは『迷羊』という言葉に集約されてますよね。迷う存在とだいぶ前からにおわされてたんです。その美禰子が三四郎を前にして『われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり』と呟くとき、そこには加藤さんの言うように後悔の念があるのかもしれません。愛しきれなかったことへの後悔というのは実にその通りだと思いますよ。うん、ほんと素晴らしい考察でした。ありがとうございます」
慎重そうにうなずき、加藤さんは口許を隠した。深い息がまた聞こえてきた。
「どうしてこんなことを言ったのかはここまででいいでしょう。今のがすべてとも思いませんが後はみなさんで考えてください。しつこく言いますが正解はありませんからね。それぞれが好きなように解釈すればいいんです。――では、これで本当に最後です。この台詞に出てくる罪について考えてみましょう。『我が罪』ですね。加藤さんが言ったように台詞全体は後悔を示してるのだと思います。しかし、この『我が罪』は引っかかります。美禰子はなにを罪としたのでしょう? 柳田くんは三四郎を惑わした罪と言いました。そうでもあるのでしょう。でも、それだけなんでしょうか? 好きに解釈すればいいと言いましたが、これをどう捉えるかでこの物語は性質を大きく変えるんです。それくらい重要な言葉なんですよ。では、どなたかこの言葉について意見のある方はおられますか?」
高槻さんは首を巡らせている。ただ、目を合わせてはこなかった。
「新井田さんはどうです?」
「いや、意見はあるが言わないでおこう。これも勉強だからな。そうだな、安川あたりはなにか考えてるだろ。今のをまとめて言ってみろ」
ガタッと音がした。顎を引き、安川さんは前髪を払ってる。
「あ、はい。――その、美禰子は三四郎を惑わしていたから、それを罪としたのもあると思います。加藤さんが仰ったように後悔の言葉でもあると思うんです。ただ、それは三四郎と関係無くあるものっていうか、自分の中にしかないものに思えます。まわりの人たちとは関わらないもの、誰かに理解されなくてもいいものっていうんでしょうか、そういうのがあるように思えます」
細かくうなずき、高槻さんは腕を組んだ。目は天井に向かってる。
「うん、いいですね。理解されなくてもいいものですか。確かにそういう部分はありますね。ちゃんとわかってもらいたかったら、もっとストレートに言うはずですからね。これで最後ってときに謎な引用を持ち出すのは完全な理解を求めるのではなく、雰囲気だけ伝えたかったともとれます。言い難いことを託したのとは別にそういう部分もあるのでしょう。ところで、安川さん、この『我が罪』についてはどう考えます? なにを罪としたんでしょうか?」
「あ、すみません。――その、私は三四郎を好きになったことだと思うんですけど。いえ、三四郎をというか、好きになってもしょうがない人を好きになってしまったことと、それで三四郎を惑わしたのを罪と言ったんじゃないかって」
「なるほど。そうも思えますね。他に意見のある方はおられますか?」
私は高く手を挙げた。細められた目は頻りに動きまわってる。
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