高槻さんは桶を持って出てきた。もう一方の手にはビニール袋を下げている。
「そういえば、どこに行くか言ってなかったよね。まさかって感じだろうけど、これから墓参りをするんだ。それでもついてくる?」
「はい、大丈夫です。――で、あの、最初にした質問なんですけど、」
「ん? どんな質問だったっけ?」
「広田先生が結婚しなかった理由です」
「ああ、そうだったね。いろいろ話したんで忘れてたよ」
「もうひとつの質問も忘れてます? ちょっと後でこたえるって言ってたの」
「いや、忘れてないよ。でも、まずは文学に関する質問からいこう。広田先生の結婚しなかった理由が?」
「はい。横森さんも言ってましたけど、広田先生は父親が知らない人間だったから結婚しなかったんですか?」
「どうだろうね。まあ、そう読めるよう書いてはあるよ。正確に憶えてるわけじゃないけど三四郎が『先生のはそんなのじゃないでしょう』と言う。それにたいして広田先生は『ハハハ』と笑って『君にはお母さんがいたね』みたいなことを訊く。あれは消極的な肯定に思える。つまり『例えば』と言ってはじめた話は自分のことだって認めてるわけだ。それに話題をすり替えたように思える問いかけも、けっきょくは『僕の母は憲法発布の翌年に死んだ』で終わらせてる。黒子のある女の子と出会ったのはその前の年だ。広田先生はその子に一目惚れしたんだろう。だけど、自分が生まれた経緯を知って結婚を諦めた。いや、恋をすることから身を引いたんだ。――ん? ちょっと待てよ。ハムレットか」
「ハムレット?」
「ちょっと待って。なんか思いつきそうだ」
眉間には皺が寄っている。ただ、諦めたように首を振った。
「いや、駄目か。突き抜けないな。これはもう本人に直接訊くしかないな」
「え?」
「あそこに先生のお墓がある。手を合わせて拝めばきっと教えてくれるはずだ」
顎を向けた先には平たい墓石がある。私たちは細い道に入っていった。
「なにかあったら僕はここに来るんだ。迷える子をお導きくださいって言いにね。そうするとごくまれに導いてくれるんだよ。そういうことだったんだってわからせてくれるんだ。――じゃ、落合さんの番だ。先生に訊いてみな。どうしてああいうふうに書いたのかって」
私も手を合わせた。そうは訊かなかったけど「迷える子をお導きください」とだけは言っておいた。
「どうだった? 先生は教えてくれた?」
「いえ、とくになにも」
「そうか。伝わらないってのは求める心が弱いからだ。いや、これは僕自身のことだけどね。なかなか伝わらないので困ってる」
「先生はなにを伝えたいんです?」
「ん? 漱石先生にかい?」
頬は自然にゆるんでいった。高槻さんは鼻の脇を掻いている。
「なにがそんなにおかしいの?」
「いえ、ほんとに好きなんだなって思って。それに講義のときは呼び捨てなのに先生って付けて呼ぶのも、」
「変?」
「そんなことないです。ただ、」
「ただ?」
「かわいいなって思いました。ほんと子供みたい」
「はっ! 十五も年の離れた子に言われるとむちゃくちゃ気恥ずかしいな。居たたまれない気になるよ」
「でも、ほんとにそう思ったんです。未玖もよく言ってます。先輩のことかわいい、かわいいって」
細い道を進み、高槻さんは途中で折れた。その後も幾度か角を曲がり、ぐんぐん歩いていく。墓地はまるで迷路のようだった。
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