「前にも言ったろ。『三四郎』を読んで真剣に小説を書きたいって思うようになったって。そのときから先生は常に僕の導き手になった。だから、どうしたってそう呼びたくなる。みんなの前で言うとさすがに変人に思われるからやめてただけだ」
「だけど、そういうのっていいと思います。好きって気持ちが伝わってくるから。みんなもわかってると思うんです。先生が漱石先生のこと大好きなんだって」
「そうかね」
日は高く、歩くだけで汗が噴き出てきた。木陰には猫がいる。百日紅だろう、赤い花がその上で揺れていた。
「ああ、それに僕が先生を尊敬する理由がもうひとつある。先生は弟子への手紙に『死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい』って書いてる。それを読んだときは泣きそうになった。ほんとにそうだよなって思ったんだ。他には『いやしくも文学をもって生命とする者ならば単に美というだけでは満足ができない』とも書いてあった。これもその通りだ。僕たちのまわりには目にしたくないものや、耳にしたくないことが溢れてる。だけど、文学を志す者はそういうものへ目を向け、耳を傾けなければならない。それは苦しいことでもあるんだろう。ただ、きれいで美しいものばかり追ってるようじゃ駄目だ。社会の根っこにある、穢らしく、おぞましい、グロテスクなものと闘わなくちゃならないんだ。それはそんなに難しいことじゃない。だって、穢さも、おぞましさも、僕たちの中にきちんとある。それを無視しなければ自然と書けるはずだ」
足を止め、高槻さんは目を細めた。正面には草に覆われた小さな墓がある。
「あった、ここだ。一年も来ないとわからなくなるもんだな」
「ここは先生の?」
「いや、僕はまだ生きてるけど」
「すみません。あの、先生のとこのお墓です?」
「まあ、そういう感じのものだね。誰も来ないし、僕も年に一度しか来ないから荒れ放題になってるけど」
蔓延る草を掠めるようにカラスが飛んでいった。高槻さんはしゃがみ込み、草をむしってる。
「私も手伝います」
「いいよ。すぐ終わるし」
「でも、二人でやった方が早く終わります」
向けられた顔には汗が浮き上がってる。私も同じだった。重たい液体が指先でなぞられてるみたいに流れるのがわかった。
「じゃ、これ使って。誰かと来るなんて思ってなかったから一つしか持ってきてないんだ。落合さんもまさか墓場に行くとは思ってなかったろ?」
「そうですね。こういう展開は考えてなかったです」
「それが当然だ。その上、草むしりまでさせられるんだからな」
体温の残る軍手を嵌めると私は逆側へ向かった。強い陽射しに草の緑は際立って見える。
「しかし、こりゃ酷いな。親父もさぞやうんざりしてることだろう」
「どんなお父さんだったんですか?」
「知らない」
「え?」
「知らないんだよ。生まれたときに親父はいなかった。いや、こいつはしぶといな。根がすごく張ってる。――ああ、そう、違う父親はいたけどね。広田先生と同じだ。僕もしばらくその人を本当の父親だって思ってた」
無理に引っ張ったからか草は根元で抜けた。よろけそうになったのをこらえ、高槻さんは切れた部分を見つめてる。
「さっき、ほら、講義のときだよ、ちょっとカリカリしてたろ? そうしちゃいけないって思っても駄目だった。あの部分を読むとどうしたって気持ちが変になる。まるで自分のことのように思えるんだ。ほんと反省してるよ。嫌な雰囲気になってたもんな。もしかしたら落合さんはそれを気にかけてくれたんじゃないの?」
「いえ。――あの、それでここに連れてきたんですか?」
「まさか。現実ってのはそんなもんじゃない。そろそろ親父の命日なんだけどさ、これでも忙しいから今日しか来られなかったんだ。――うん、これくらいでいいだろう。素晴らしいとまではいかないけど、まあまあは見られるようになった。ほれ、水をかけてやるぞ。ほんとは酒の方がいいんだろうけどこれで勘弁してくれ。その代わりにワンカップを持ってきてるからな」
透明な瓶を置き、高槻さんは全体を眺めるようにした。私はその隣に立った。
「酒が好きだったようなんだ。それでうんざりするくらい失敗したそうだ。母親と別れた原因もそれだって祖母ちゃんは言ってた。だけど、不思議なもんだよ。写真でしか見たことのない人間だってのに、どっかで繋がってるように思えるんだ。ルーツとかじゃない。ただ、この墓に眠ってる男と僕には共通点がある。知れば知るほどそう思うようになった。この人のやらかした失敗も、この人が求めたものも、失ったものもよくわかる。それは僕の失敗でもあるし、求め失ったものなんだ。――ってとこで、もう一度考えてみよう」
「はい?」
「広田先生のことだよ。そのためにもここに来たんだ。漱石先生に教えてもらうつもりでね。だけど、教えてくれなかった。たぶん機嫌が悪かったんだろう」
桶を手にすると高槻さんはふたたび墓石を見つめた。それから、来た道を戻っていった。
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