それからしばらくは二人とも黙っていた。日は高く、汗は自然と浮かんでくる。信号で足を止めたとき、高槻さんは覗きこんできた。
「そういえば篠田さんはどうかしたの? 休憩のあと様子が変だったけど。もしかして彼氏とうまくいってないとか?」
「逆です。うまくいき過ぎて困ってるんです」
「うまくいき過ぎて困ってる? どういうこと?」
信号が変わった。すこし行くと護国寺へ着く。山門の向こうには青い空が広がっていた。
「うん、ちょっとだけ見ていこう。この門は『夢十夜』にも出てくるんだ。落合さんは読んだことある?」
「いえ、読んでないです」
「そう。あれもいいよ。その何話目かにここが出てくる。明治時代になぜか運慶がいて、この場所で仁王さんを彫ってるんだ。主人公がそれを眺めてると『運慶は木の中に埋まってるのを彫り起こしてるだけだ』ってのが聞こえてくるんだよ。だったら自分もやってみようと思うんだけど、どの木にも仁王は入ってなかったって話だ。いや、あれも書くことに関するものに思えるんだよね。ストーリーが自分の中にありさえすれば簡単に書けるってふうにさ。逆を感じることが多いからかな。この話は自分の中に埋まってなかったんだって思うことがあるんだよ」
頭を振りながら高槻さんは歩き出した。日大の付属校を過ぎると、薄いブルーの陸橋が張り出している。そこを通るとき、ちょうど自転車がさしかかった。私たちは一列になった。
「ああ、そうだった。篠田さんのこと話してたんだっけ。うまくいき過ぎて困ってるって言ってたけど、泣いてなかった? 泣くくらいうまくいき過ぎてるってこと?」
広い背中は目の前にある。それを見つめながら私はこうとだけこたえた。
「未玖は私のとこに泊まるって言ってきたみたいなんです」
「は? ――ああ、ごめん」
「いえ」
高槻さんは覗きこんできた。陸橋の陰で私たちは間近に互いを見合った。
「それって、」
そう言って高槻さんは足早に歩いた。私は走るようについていった。
「つまりはそういうことか」
「はい、そういうことです」
腕を組み、高槻さんは顎を突き出させた。
「うーん、展開が早いな。ま、デートに誘われたときもそんなこと言ってたから早過ぎるってわけじゃないだろうけど、――いや、やっぱり早いな。それにまだ高一だろ? それだって早過ぎるよ」
広い交差点を渡り、私たちは高架下を歩いた。そこは緩やかな坂で、片側は崖のようになっている。
「別に早過ぎることはないんじゃないですか? 私たちくらいの年になればそういうのも普通だと思います。それに、未玖は言ってました。恋愛の延長線上にそれは絶対あるって」
「まあ、そうかもしれないけどね」
日陰には涼やかな風が流れてる。顔をあげ、私は鋭角な顎を見つめた。
「そういえば前に話してましたよね。中学のときにつきあってた子がいたって。詩を書いてる子で、先生も真似して書いたって」
「よくそんなの憶えてたね。まあ、そうだけど、それが?」
「その子とはどういうおつきあいしてたんです?」
「篠田さんと同じこと訊いてくるな。だけど、そんなの聴いてどうするの?」
「その、今後の参考にしようと思って」
救急車が走り抜けていった。高槻さんは立ちどまり、サイレンが遠退くと肩をすくめた。
「僕のは参考になんてならないよ。それに、その話はあまりしたくないんだ」
「どうしてです?」
「どうしてって。――そうだな、あまりいい別れ方じゃなかったんだ。いや、僕にはあまりちゃんとしたっていうか、いい感じの恋愛話がないんだよ。高校のときにつきあってた子とも碌な別れ方しなかったしね。うん、ありゃ酷かった」
「どんな別れ方だったんです?」
高槻さんは腕をぶら下げるようにした。崖が切れるところには光が溜まってる。
「どうしました?」
「いや、なんでこんな展開になっちゃったんだろうと思ってね。自分でもわけがわからなくなってきた」
「でも、聴かせて欲しいです」
「ほんとに聴きたいの?」
「はい、できれば」
「そうか。――ま、別にいいけど、なにから話そうか。ええと、そうだな、前にも言ったけど家にいろいろあって僕は祖母ちゃんのとこに預けられてたんだ。中一から高校を卒業するまでね。そのいろいろってのが収まったっていうか、まあ、東京に戻ってもいいかなって思うようになったんだ。大学も東京だったし、だったら生まれた家から通った方がいいだろうってね。よくあるパターンだよ。距離があくことになって半ば自動的に別れた。だけど、ここまではほんとよくある話だろ」
「まあ、そうですね」
「でも、ここからが違ってる。東京に戻ってからわりとすぐに僕は祖母ちゃんとこに行った。置いてきた本を取りに行ったんだ。その帰りにその子にばったり出会した。あれはなんていうか非常に驚いたね」
「どうしてです?」
「まず着てるものから違ってた。かなり派手になっててね。それに話し方や目つきも変わってた。それだけでも驚いたけどそれだけじゃなかった。僕たちは空いてる電車に向かい合って座った。高校の頃のことや、今はどんな感じみたいなことを話してたんだ。電車は隣の駅を出た。しばらく進むと新しく建て売りされた家が並んでた。行きにも見たものだった。こんなのが出来たんだと思ってたんだよ。彼女は笑いながらその一軒を指した。ごく普通の家だよ。屋根はくすんだオレンジでね、ガレージに青い車が停まってて、その前にはカラフルな三輪車が置いてあった。それを目で追いながら彼女はこう言ったんだ。『私、あの家の人と不倫してんの。ほら、ずっとバイトしてるとこの店長さんよ』ってね」
高槻さんは角を曲がった。そこは目映い光に覆われてる。片側には墓地が広がっていた。
「それで幾つかのことがわかった気がした。それまでぼやけてたけどなんとなく気にかかってたものの正体がわかったんだ。彼女はだいぶ前からその男と不倫してたんだろう。ま、つまりは二股をかけられてたってことだよ。電車は進んでいって、その家はすぐに見えなくなった。僕はそういうことだったのかって顔をしてたんだろうな。それを見て彼女はシートに背中をあてた。そして、こう言ってきた。『だけど、あなたも同じでしょ』ってね。『私、知ってたの。あなたは初めっから私のことなんて好きじゃなかった。そんなのわかるわ』ってさ。彼女はもう笑ってなかった。意味がわからなかったね。だけど、一人になってからじんわり理解できた部分はあった。彼女は僕をそうやって傷つけたわけだけど、それ以前に、いや、それこそ最初っから僕は彼女を傷つけてたんだってね」
墓地を巡る塀にはトケイソウが絡まっている。その淫靡にみえる花は自らの重みに項垂れ、際立つ白を弱くさせていた。高槻さんは肩を落とした。
「その理由も言いたくないけど僕はそういう人間なんだ。きっといまだにそうなんだろう。凍ってるんだよ。心の芯が冷たく凍ってるんだ。――っと、あそこに寄るからちょっと待ってて。すぐに戻るから」
そう言って高槻さんは『此花亭』と書いてあるお店に入った。煙草を咥えたお爺さんが通り過ぎていった。それを眺めていると三四郎の台詞が思い浮かんできた。「先生はそれで結婚をなさらないんですか」
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