小説『stray sheep』先頭へ

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― 8 ―

 

 

 

 窓からは月が見えた。真円に近い、どこも欠けてないような月だ。床には紙が散らばっている。私は顔をしかめていた。読むんじゃなかった。そう思っていたのだ。

 

 

 家の中は静かで耳を澄ましてもなにも聞こえてこなかった。月には雲がかかり、その際を滲ませている。きっと風は死に尽くしたのだろう。雲は容易に動かなかった。けれども動かずにもいられないようで崩れるように流れた。その薄明かりの中で私は思い出そうとした。屋上で高槻さんが言っていたことだ。

 

 

 そう、たしかこんなことだった。――煌々と輝く月の正体は太陽を反射してる鏡みたいなもので、そういう意味で夜の月は太陽を含んでる。

 

 

 私はじっと月を見つめた。あの光は太陽のもの。だから、いま浴びてるのは鏡に反射したものに過ぎない。月が輝くことなんてないのだ。

 

 

「ふうっ」

 

 

 深く息を吐き、私はフェルトのウサギを取った。その顔はこう言ってるようだった。

 

 

「あれを知ってますか。あれは、みんな雪のですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起るふう以上の速力で動いているんです」

 

 

 高槻さんもそう言いそうな気がする。視線が合ってないんだ。強い否定でなくても、私たちには不一致がある。そう考えると息ができないような気分になった。

 

 

 

 

 


『この頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。二、三日掛かって、知ったものへはほぼ売付けた様子である。与次郎はそれから知らないものをつらまえる事にした。大抵は廊下で捕まえる。するとなかなか放さない。どうか、こうか買わせてしまう。時には談判中に号鐘ベルが鳴って取り逃す事もある。与次郎はこれを時あらずと号している。時には相手が笑っていて、何時までも要領を得ない事がある。与次郎はこれを人利あらずと号している。或時便所から出て来た教授を捕まえた。その教授は手帛ハンケチで手を拭きながら、今ちょっとといったまま急いで図書館へってしまった。それぎり決して出て来ない。与次郎はこれを――何とも号しなかった。後影を見送って、あれはちょう加答児カタルに違ないと三四郎に教えてくれた』

 

 

 

 私はたまに外を眺めた。綿を千切ったような雲がたくさん浮かんでる。亀井くんに見られてるのはわかっていた。でも、目を合わせたりはしなかった。

 

 

「『与次郎は第一に会員の練習に骨を折っている話をする。話通に聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日ぜんに役に立たなくなりそうだ。それから背景の話をする。その背景が大したもので、東京にいる有為の青年画家を悉く引き上げて、悉く応分の技倆を振わしたような事になる。次に服装の話をする。その服装が頭から足の先まで故実ずくめに出来上っている。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。その外いくらでもある』

 

 うん、ここは面白いですね。では、このまま二百六十一ページの頭まで読んでください」

 

 

 高槻さんは教卓を離れた。近づいてくるのを待ち、私は顔をあげた。ペンケースから突き出たウサギを見ると目はゆるんでいった。

 

 

 

「では、いまの部分を読み解いていきましょう。――と、その前に横森くん、前回お休みだったので、どんな感じだったかさらっと話しときましょうか?」

 

 

「ああ、いえ、加藤からノートのコピーもらったんで大丈夫です」

 

 

「そうでしたか。それなら大丈夫ですかね。わかりづらいことがあったら後で訊いてください。ということでこのままつづけますがいいですね?」

 

 

 横森さんはうなずいている。私は前の背中を見た。それはまったくといっていいほど動かなかった。

 

 

「では、話しますね。前回ここから先はエピローグのようなものだと言いましたが、新たな展開が用意されてます。しかし、これも意図あってのことです。前章を張りつめたように終わらせ、がらっと印象を変えてるんです。これは二重の効果を狙ってのものでしょう。ひとつはいま言った通りのこと、つまりは張りつめた空気をいったん崩したいというもの、もうひとつは上げて下ろすってやつですね。元気に駆けまわってる与次郎を書き、その後で引きずり落とすためです。そこを読みます。ええと、二百五十二ページですね。

 

『万歳を唱えた晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。昼間とは打って変っている。堅くなって火鉢の傍へ坐って寒い寒いという。その顔がただ寒いのではないらしい。始めは火鉢へ乗り掛るように手を翳していたが、やがて懐手になった。三四郎は与次郎の顔を陽気にするために、机の上の洋燈ランプはじから端へ移した。ところが与次郎は顎をがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒くに照している。一向冴えない。どうかしたかと聞いた時に、首を挙げて洋燈ランプを見た』

 

 この後には広田先生を教授にする運動の結果が述べられてます。これはただ失敗しただけでなく、『大変な不徳義漢』と宣伝される材料になってしまうんです。その上『偉大なる暗闇』を書いたのは三四郎だと報じられてしまいました。まあ、この部分は深刻さを薄めるために思えますね。広田先生の問題だけだと深刻になりすぎてしまうので別の要素を入れ込んだって感じです。実際にもそれについての問答がつづいて主たる問題は追いやられてます。二百五十五ページにはこう書かれてますね。

 

『三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪われて、かえって迷惑しているのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなった』

 

 とはいえ、ことは深刻なはずです。なにしろ広田先生の人格に関した問題なんですから。で、これをどう収めるのか、広田先生はどのような反応をするかが読み手の興味になるわけです。三四郎と美禰子のことはひとまず脇へ置いて、こっちへ興味を惹くよう書いてるんです」

 

 

 ノートを手に高槻さんは歩きだした。雲は流れ、見てる間に形を変えていった。

 

 

「また、このようにも考えられます。エピローグの推進力のためにこの問題を残していた、とです。三四郎と美禰子の関係には一区切りが設けられました。ストレートなものでなくても三四郎は告白し、これまたストレートでないにせよ美禰子は拒絶を示したのです。なおかつ第三の男があらわれたことは絶望的な雰囲気をもたらしました。ただし、その男が何者かという謎が残ってます。それに告白と拒絶がストレートでなかったため、終わり方としては淡いものになってましたからね。いえ、漱石は最後まで淡くぼんやりしたものとして三四郎の恋を描きたかったんでしょう。でも、あれで終わりでは物足りなく感じられますよね。ということで最終的な別れのシーンも用意してあるんです。しかし、間髪入れずそうしては淡い印象が台無しになりかねません。なので広田先生の問題を残していたのでしょう」

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。