「どうしてそんなこと言わなきゃならないの。ここには息子もいるのよ。それにね、その小説がどれほど大切なのか知らないけど自分のことも大切にしなきゃならないわ。いい? 軽い気持ちでそんなことしちゃ駄目よ。あなたはまだ十五歳で、これからたくさん素敵な出会いがあるはずなの。まあ、その人がほんとに好きならかまわないわよ。愛してるってならね。でも、いいなって思ってたくらいなんでしょ? だったら、映画だけにして、そっちはお断りなさい」
声をあげて高槻さんは笑いだした。順子さんは顔をしかめてる。
「なに笑ってるの。あんたは一応とはいってもこの子の先生をしてるんでしょ。駄目なことは駄目って言ってあげなきゃいけないわ」
「いや、母さんも篠田さんのペースに巻きこまれてると思ってね。だけど、そんなに深刻な話じゃないんだよ。この子は少々行き過ぎてるくらい想像力が豊かなんだ。まあ、小説家としてはその方がいいけどね。経験が多いだけで想像力が乏しいよりは断然いい」
「またわけのわからないこと言って。で、あんたはこの子がそういう経験をした方がいいって思ってるの?」
「違うよ、そうじゃない。そんなのはそもそも本人が決めることだしね。それに優れた小説家は勘のいいものなんだ。自分がどう動くべきかなんとなくわかるんだよ。だから、この子はそういうことになったときに自分がどうすべきかわかると思うんだ。ただね、篠田さん、これだけは言っとくよ。経験ってのは棘みたいなものなんだ。どのような経験でもそれは棘になる。書き手はそれに向かいつつ、より普遍的なものにしていかなきゃならない。自分だけが理解できるものでなく、他者と共有できるものにすべきってことだよ」
こめかみを揉みながら順子さんは首を振っている。白い髪は揺れていた。
「なんだか難しそうなこと言ってるけど、あなたたちは意味がわかるの?」
「はい、だいたいはわかります。つまり、もし私が優れた書き手だったらそういうことがあったときにどうすべきかわかるってことですよね? それと、経験したことを書くときは自分の思いだけじゃなく、人にも共感できるようにしなきゃならないってことでしょう?」
「その通り。それに前にも言ったけど経験しなきゃ書けないってことはないんだ。逆に経験してしまったために書けなくなるってこともある。いいかい? 理屈のともなわない経験は想像より劣るんだ。だから書き手が意図的になにか経験しようとするなら、すべて言葉に置き換えられるよう気を張りつめてなきゃならない。ま、そんなのはロマンチックな初体験とはならないだろうから、お勧めはしないけどね」
コーヒーを飲みながら未玖は目を細めてる。雨音は強く聞こえていた。
「ああ、それにこうやって悩んでること自体が小説を書くためのいい訓練になってるんだ。限定された状況の中で登場人物がどのように考え、行動するかってのを実地でやってると思えばいい。自分が主人公なんだよ。で、周囲がこう動いたら、どうすべきかって考えるんだ。結末はどうあるべきかってこともね。明日は盛りあがりのシーンだ。そこでどう動くかで結末も変わってくる。ただ、この場合、結末を引き受けるのは篠田さん自身だからね。ま、母さんが言ったようにこれからだって素敵な出会いってのはたくさんあるはずさ。それを待つのもありだとは思うよ」
「うーん」
未玖は天井を仰いでる。腕を組み、高槻さんは微笑んでいた。
駅に着くと未玖はタオルで髪を拭いた。私はハンカチで押さえるだけにした。
「あんたもタオルあるでしょ。なんで使わないの」
「だって、もうしまっちゃったから」
「ふうん」
じっと見つめ、未玖は歩きだした。私はぼんやりしていた。言葉が渦巻いていたのだ。それは主に『三四郎』について語られたものだったけどそれだけではなかった。きっとあの小説が影響をあたえているのだろう。柳田さんたちもそうだし、未玖だってそうに違いなかった。
「さっきの話だけど、今日一日よく考えてみる。ほら、こういうのも小説を書く訓練だって言ってたじゃない。ほんといい人よね。ただ駄目って言うんじゃなく、違うものの見方を教えてもらったって感じがするもん。結月もそう思うでしょ?」
「え? うん、そうね」
「そういえば、あれはもう読んだの? ほら、かなり刺激的なやつ」
私はうつむいていた。角を曲がると階段がある。台風のせいか、そこには誰もいなかった。
「その顔は読んだわね。で、どうだった? 想像したりした?」
「なに言ってんの。それに想像ってなによ」
「だって、あれって一人称で書いてあったじゃない。だから、あの『僕』ってのは昂平さんでもあるわけでしょ。それを想像しちゃうと、ちょっと刺激が強すぎるってことにならない? 私はあれを読んだあと昂平さんを見るともやもやするっていうか、胸がきゅんきゅんするっていうか、」
「やめてよ、変なこと言うの」
「変なことなんかじゃないでしょ。朝も言ったけど、そういうのって恋愛の延長線上に絶対あるものなんだから」
階段の隅には水溜まりができている。平らに見えるけど少し窪んでるのだろう、そこだけが輝いていた。
「ね、なんとなく思ってたことがあるんだけど、言ってもいい?」
「なに?」
「結月、昂平さんのこと好きなんでしょ」
「え?」
「別にこたえなくっていい。見てればわかるわ。だけど、こういうのって初めてじゃない? あんたって、どういうわけかそういうの避けてる感じがしてたもん。ほら、告白されたことは何度かあったでしょ。でも、あんたはまったく反応しなかった」
「勝手に決めつけないでよ」
「勝手に決めてなんかないわよ。ま、見てて思ったことを言ってるだけなのはそうだけど、これはあたってるはずよ。それにこれもなんとなくだけど昂平さんも結月のこと気にしてるように思えるの。――あ、ってことは三角関係がもう一つできたってわけ?」
「どういうこと?」
なにかが痞えてるような気がしていた。それでいて呼吸は速くなっている。鼓動が聞こえてくるほどにだ。
「だって、泥亀は結月のこと好きみたいじゃない。でなきゃ、あんなにじっと見つめたりしないでしょ」
私は弱く息を吐いた。ホームに立つ人はみな濡れた傘を持ち、乱れた髪を直してる。電車が来ると未玖は一歩だけ足を出し、振り向いた。そして、こう囁いてきた。
「タオル、変なことに使わないでよ」
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