◇
塗料の毛羽だったドアをあけると高らかに鈴が鳴った。店には誰もいなく、ピアノの音だけが聞こえてる。
「あらあら、こんな嵐の中よく来たわね。まあ、びっしょり濡れて。ちょっと待ってなさい。タオル持ってくるから」
雨のあたる音はボツボツと聞こえてる。順子さんは目を細め、弱々しく首を振った。
「開店休業状態よ。誰も来ないの。雨が強くなってからはぱったり。それにしてもまったくひどい雨ね。こんな時期に台風がくるなんて思ってもなかったわ」
「ほんとすごいですよ。風も強いし、ここに着くまで誰にも会わなかったくらいですもん。――ん? このタオル、昂平さんの匂いがする。ね、結月も嗅いでみて」
「やだ、そんなふうに言われると変な感じするわ。それは柔軟剤の香りよ」
タオルを肩にかけ、未玖は目だけ向けてきた。私は畳んで膝に置いた。
「じゃ、回収するわ。もう大丈夫でしょ?」
「いえ、洗ってからお返しします」
「そんなことしなくていいわよ。どうせたいしたもんじゃないんだから」
未玖は口をすぼめてる。そして、ひとりで面白そうに笑った。
「ううん、順子さん、洗って返します。ほら、私たちって昂平さんからいろいろお世話になってるでしょ。そういう気遣いくらいはしとかなきゃならないもん」
「そんなの気にしなくていいのよ。――って、なにがそんなにおかしいの?」
「いえ、ちょっと。それはこっちだけの話で。ま、洗わせてくださいよ。きちっとびしっと洗って返しますから」
「そう? じゃ、そうしてもらってもいいけど」
順子さんと入れ違いに高槻さんがやって来た。髪はまだ濡れている。
「ん? どうかした?」
「私たちが教え子としての気遣いをみせてたとこ。――え、やだ、昂平さんって眼鏡外すとまあまあいい男にもみえる。ね、結月、あんたもそう思うでしょ?」
「あのね、まあまあいい男にもみえるって表現はどうかと思うよ。かなり限定的に聞こえちゃうんだけど」
「だって、そういうつもりで言ったんだもん。――ああ、お腹空いた。なんか奥からすっごくいい匂いがしてるからかな。ねえ、順子さん、これって、」
「ビーフシチューよ。まだ試作段階だけど、ちょうどいいからあなたたちに食べてもらおうと思って。昂平、あんたはスクランブルエッグつくって。ああ、それと冷蔵庫にクリームコロッケがあったわね。それもお願いするわ。私は味を調えちゃうから」
料理が出されると未玖はしばらく黙った。順子さんは首を伸ばしてる。
「どう? 試作品とはいってもけっこう気を入れてつくったつもりなんだけど。お口に合うかしら?」
「え、すっごく美味しいですよ。スプーンをあてただけで崩れちゃうくらい柔らかくって。それに、スクランブルエッグとの相性もばっちりだし」
未玖はもごもごしゃべってる。微笑みながら順子さんは顔を向けてきた。
「ええと、結月ちゃんだったわね、あなたの意見も聴きたいわ。どう?」
「美味しいです。こんな美味しいビーフシチューはじめてかも」
「そうよね。順子さん、これは絶対メニューにした方がいいですよ。あ、ちなみに私は未玖ちゃんですからね」
「ありがとう、未玖ちゃん。ところで、あなたはいつも元気ね。こんな天気でみんな疲れちゃってるってのに」
「そんなことないですよ。これでも思いっきり悩んでるとこなんです。それで相談したくて来たんですから」
「あら、なにを悩んでるの?」
「私、デートに誘われちゃったんです。昨日の夜中に突然電話がかかってきて、明日映画に行こうって」
「ふうん。でも、高校生なんだからそういうのって普通にあるもんじゃない? ああ、もしかしてあまり好きじゃないとかなの?」
「いえ、そういうことで悩んでるんじゃないんです。半田先輩っていうんですけど、バスケ部のキャプテンやってた人で、顔は非常にいいし、背がむちゃくちゃ高い上に話も面白いしで、前からいいなって思ってはいたんです。――あの、同じクラスに山本って仲のいい男子がいるんですけど、その子もバスケ部なんですね。で、夏休みに入ったばかりの頃、その子たちと花火に行ったんです。そこで先輩ともけっこう仲良くなれて、」
首を引き、未玖は口を覆ってる。頬は赤くなっていた。
「なんですか? やだ、みんな変な目で見て」
「だって、かわいいって思ったんだもん。それに、そんなに好きだなんて知らなかったから」
「別にそんなにじゃないわよ。ちょっといいなって思ってたくらい」
「だけど、だったら悩むことないじゃない。ま、そこまででないにせよ、いいなって思ってた先輩なんでしょ?」
「そうなんです。だから行く行かないじゃなく、その後のことで悩んじゃってるんです」
高槻さんは額に手を添えている。目は順子さんに向かっていた。
「母さん、ちょっと休んだら? 店は見てるからさ」
「なんで? 今日は暇だったから休む必要もないわ。それにこの子の話も途中じゃない。――で、その後ってなに?」
「映画の後で、もしかしたら求められちゃうかもしれないじゃないですか。そうなったらどうしようって悩んじゃってるんです」
「は?」
眉をひそめ、順子さんは溜息をついた。
「呆れた。ほんと呆れたわ。あなた、まだ十五歳なんでしょ。なんでそんなことまで考えてんの。ううん、もし嫌だってなら、そっちは断ればいいだけでしょ。違う?」
「嫌でもないんですよ。その、向こうが求めてくるならしてもいいかなって思ってるんです。だけど、踏ん切りがつかないっていうか、あまり急だったから頭がついていかないっていうか。あの、書いてる小説のためにも経験したいって思ってるんです。いつかはすることだし、だったらタイミング的にはいいのかなって。――あ、そうだ、順子さんの初体験は何歳のときだったんですか?」
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