小説『stray sheep』先頭へ

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 未玖がすっと手を挙げた。顎は上向きになっている。

 

 

「はい、篠田さん、なんでしょう?」

 

 

「いえ、質問じゃないんですけど、前に先生が言ってたことで気づいたっていうか、もしかしたらそうなのかなって思ったことがあったので」

 

 

「ああ、いいですね、そういうの。ぜひ聴かせて欲しいです。それはどのようなことですか?」

 

 

「あの、『可哀想だた惚れたって事よ』についてなんですけど、先生は誰の感情なのかわからないって言ってましたよね。それがなんとなくわかったように思えたんです。まあ、間違ってるかもしれないんですけど」

 

 

「ほう、そりゃ聴きたいですね。で、それは誰の感情なのでしょうか?」

 

 

「はい。それは美禰子が三四郎にたいして持った感情だと思うんです。っていうのは、さっきも出てきた三四郎と野々宮の違いを元にしてるっていうか、つまり、野々宮は有名な学者なのに、三四郎は田舎から出てきたばかりのまだどうなるかわからない子ってことに原因があると思うんです」

 

 

「ああ、なるほど。うん、いいですね。それで?」

 

 

「その、美禰子はそういう三四郎を可哀想に思ってるんじゃないでしょうか。どんなに頑張っても野々宮には敵わない男だってわかってるのに好きになるってのは『可哀想だた惚れたって事よ』になるのかなって思ったんです。それと、いま読んだところにも気になる部分があったんです」

 

 

「うん、それもぜひ教えてください」

 

 

 鼻を摘まみながら高槻さんはうなずいている。未玖はにんまりした顔を向けてきた。悩みなんて忘れ去ったようにだ。

 

 

「雨の中を歩くシーンがありましたよね。美禰子が木の陰に行こうって言うところ。もしかしたら三四郎はこのときに美禰子を可哀想と思ったんじゃないかなって思ったんです。先生は三四郎も野々宮も美禰子のことを理解してないって言ってましたけど、ずっと謎だって思ってた美禰子のことがちょっとはわかりかけてきて、可哀想に思ったのかなって。で、それはやっぱり愛になったんだと思ったんです」

 

 

「素晴らしい。いや、ほんと素晴らしいですよ。もしかしたらそうかもしれませんね。この話に出てくる愛は常に三者の関係においてあらわれてます。独立した二者の関係にはなり得ない構造なんです。その中では『可哀想だた惚れたって事よ』も同じ構造のものとして考えるべきなんですね。――うん、なるほど。いや、篠田さん、非常にいいですよ。その考えはどうやって導き出したものですか?」

 

 

 未玖はちょっと怯んだ表情になった。ただ、しっかりと前を向いてこたえた。

 

 

「あの、実地で学んだっていうか、まわりを見てそう思ったんです。私の知ってる人たちにも当て嵌まるなって考えたらそうなのかもって。――その、ひとりは頭が良くて、もうひとりはそうでもないのに頑張ってる感じの人、そのあいだを揺れ動いてる女の人がいるので、それを見てたら、その三人も『三四郎』に出てくる人たちと同じじゃないかなって思ったんです」

 

 

「そうでしたか。観察したってことですね。そこからアイデアが浮かんだ。そういうのは書き手にとって重要なことですよ。人間の理解には不可欠なことでもあります。僕たちは周囲の人から幾らでも学べるってことですね。その中でもどうしてそういった行動をしたか考えるのは良い訓練になります。動機を探るんですね。ただし、ひとつに絞ったりしないのも肝要ですよ。人が行動するのには幾つかの動機があるはずなんです。ひとつに絞ることもできますが、そうするときちんとした理解から遠のく可能性もあります。――そうですね、譬えは悪いですが、子が親を殺したとして、その動機が介護疲れだったと報じられたとします。でも、本当にそれだけなのかはわかりませんよね。実はその底には金銭的な要素もあるのかもしれない。他にも長いこと積み重なった怨恨が含まれてる場合だってあるでしょう。外形的に見てわかりやすい関係から、あるいは当の本人が表明してることだけで判断すると本当のことはわからなくなってしまうんです。文学というのは、」

 

 

 そこで言葉を切り、高槻さんは目を細めた。

 

 

「いいですか? 文学というのはそういった取りこぼされてしまうような動機をひとつひとつ拾いあげるものでもあるんです。社会の中に埋もれてしまう、理解しやすくされてはいるものの本当は複雑である人間の行動原理を探る行為ということです。そして、最初の話に戻りますが、それは魔法の出てくるものであっても同様のことなんです。なにをテーマにしていても、そういう複雑な行動原理を追求するものであれば、それは文学といえます。なにを書くかでなく、どう書くかで決まるんですよ」

 

 

 ノートを閉じ、高槻さんは窓の外を眺めた。雨はさらに激しくなっている。風も強く、ガラスの模様は無軌道さを増していた。

 

 

「今日はここで終わりにします。いや、最後に素晴らしい意見が聴けてよかったです。篠田さん、ありがとうございました。では、すごい雨ですので、みなさん気をつけて帰ってください」

 

 

 私もノートを閉じた。伸びをしながら未玖は教室を見渡している。

 

 

「ね、さっきの面白かったでしょ。私がしゃべってたとき前の二人が気まずそうにしてたの」

 

 

「面白かったっていえばそうなんでしょうけど、」

 

 

 全員が一度外を見て、足早に帰っていった。私たちは座ったままそれを見送った。

 

 

「駅までは別行動にしてって言われてんの。ま、職員室にも寄んなきゃならないんでしょうから、ゆっくりあとをつけるようにして行こう」

 

 

 未玖は大きく溜息をついた。そのときには悩みが戻ったような表情になっていた。

 

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。