小説『stray sheep』先頭へ

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「広田先生はさっきの部分で『露悪』にまで言及してくれてます。そして、その言葉は自分が即席でつくったとも言ってますね。それにつづく部分も読みましょう。ちょっと長いですが辛抱してくださいね。

 

『君もその露悪家のいちにん――だかどうだか、まあ多分そうだろう。与次郎の如きに至るとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日ではめいめい同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剝ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同士が御互に不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮して行くものと思えば差支ない。そうして行くうちに進歩する』

 

 どうでしょう? けっこう難しいですよね。辞書的な解釈になると短く済むんですがね」

 

 

 今度は『露悪』の下に『自分の良くない部分をわざとさらけ出すような言動』と書き、高槻さんはしばらくそれを見つめた。

 

 

「字義としては簡単なものでも小説の中であらわれると難解になってしまう場合があるんです。なぜそうなるかわかりますか? ――いや、これは質問ではありませんよ。そんなに怯えないでください。言葉の意味が小説で難解に変わるのは書き手が重層的な意味づけをするからです。この場合、漱石は『偽善』に利他主義的な意味もつけ足しています。まあ、純粋な利他主義というのは法律や宗教上の幻想みたいなものですから『偽善』の一部としていいかもしれませんが、それにしたって教師も『偽善家』というのは言い過ぎに思えますね」

 

 

 未玖が手を挙げた。指先までぴんと張るような挙げ方だ。

 

 

「はい、篠田さん、なんでしょう?」

 

 

「すみません、その利他主義ってどんな感じのことですか?」

 

 

「ああ、そうですね。それから話した方がいいか。ただ利他主義の説明は対になる利己主義について言った方がわかり易いでしょう。ええと、利己主義というのは自分に都合のいいように言動するといった意味です。そう、だいたいすべての人は利己主義で生きてるんですね。僕もそうだし、みなさんもきっとそうでしょう。で、利他主義というのは、――うん、たとえばここに大きな箱が二つあったとして、右の箱に入れば得をするのがわかってるとします。ただし、その箱には定員があるんですね。そうなると人を押し退けてでもだいたいの者は右の箱を目指すでしょう。利他主義というのは、そういう場合でも自分より立場の弱い人なんかを優先して右の箱に連れてってあげるといった感じです。そういうのがごく普通にあったら理想的な社会ですよね。ただ、実際はそうじゃないでしょう? しかし、広田先生の育った環境はそういう利他主義的な言動を強いるものだったんですね。国家であるとか社会にとって良きことであれば個人の思惑は二の次にするよう求められていたわけです」

 

 

 高槻さんは顔をあげた。目は柳田さんへ向けられている。

 

 

「これは時代的な制約のある話ではありますが『三四郎』が書かれたのは西洋流の個人主義が浸透してる過渡期でもあったんですね。だから広田先生はそれを指摘してるんです。でも、こういうシチュエーションって今もありますよね。誤解を怖れず簡単にいえば、オッサンが若い子をつかまえて『俺の若い頃はこうだった』と言ってる感じですよ。広田先生はそういった話の中で利他主義を『偽善』の仲間にしてるわけです。これを書き手の側からみると、ただ単に『偽善』とはなにか? なんて説明を突然はじめるのはおかしいのでオッサンの説教にまじえて入れ込んだってことでしょう。こんな感じでいいですか?」

 

 

「はい、とってもわかりやすかったです」

 

 

「ありがとうございます。で、この場合、漱石はなにを本当に書きたかったのかというのが問題になります。オッサンの説教に紛れ込ますかたちで『偽善』という言葉を出してきたのにはもちろん意味があるはずです。だったらそれはなんなのか? これを『無意識の偽善』に絡め、さらに美禰子の言動まで含めると難しくなるんですね。美禰子は『偽善』を為しているのか? しかも『無意識』に。つまり気づかずにそれをしているのか? さあ、どうでしょう? ここまで読んで確かにそうだといえますか?」

 

 

 顔を向けると未玖は首を傾げた。柳田さんは猛然と本を捲ってる。

 

 

「いや、難しいですね。しかし、漱石はそこでやめてくれません。広田先生の口を借りて問題をさらにややこしくしてしまいます。百七十二ページにはこうあります。『利他本位の内容を利己本位で充たすというずかしいやりくち』――もうこうなるとお手上げって感じがしますが、広田先生はその説明としてこのように述べています。

 

ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪を以てする。まだ分らないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、何でも人に善く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないように仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というような事になる。この方法を巧妙に用いるものが近来大分えて来たようだ。極めて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これが一番い方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる』

 

 いやはやですね。ここを真面目に読み解こうとすると一生を費やすことになるのでしょう。それを察してか、漱石もこの辺で終わりにしてくれます。これ以上は掘り下げないんですね。三四郎のこういう感想でぶっつりと切って落とします。

 

『しかし三四郎には応えた。念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用出来るからである。三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測って見た。しかし測り切れない所が大変ある』

 

 ところで、さっきのちょっと複雑な理屈は美禰子に『すぐ適用出来る』と思いますか? 三四郎はそう述べてますが僕は首を傾げてしまいます。なんとなくわかるのは『人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる』という部分だけですね。三四郎は屈辱を感じてるので、そう思うのはわかるような気がします。ま、篠田さんの説に拠れば三四郎はドMらしいですから、そういう美禰子に惹かれてるのでしょうがね」

 

 

 肩を揺するようにして高槻さんは笑ってる。目はひとりひとりに向けられていた。

 

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。