「みなさん混乱しちゃってますね。いえ、これは僕の責任です。自分でもよく理解できてないことを説明しようとしたって混乱がつのるばかりですからね。しかし、ここは頑張りどころです。完全な理解は得られなくても考えることは求められているんです。文学の楽しみはそこにこそあるんですね。なんとなくわかるけど納得するまではいかない問題を正面に据えて考えることこそが文学を髄まで楽しむ方法なんです。さて、さっきの部分で漱石は三四郎の感想に『しかし測り切れない所が大変ある』という一文を忍ばせてます。これは問題の継続を示唆する文章です。ヒントはあたえた。だけど、それですべてが解決するわけじゃないというのを示してるわけです。まあ、ヒントが出されてかえってわからなくなるってことないですか? これもそういう感じですよね。広田先生の謎解きは美禰子という人物をどのように見ればいいかを示してはいる。ただ、方向を教えてくれるだけなんですね。割りきれない部分はいまだ残ってるんです」
高槻さんは窓の方へ行き、そこから黒板を眺めた。
「では、ここまでのところで質問はありますか?」
横森さんが手を挙げた。指に力は入っておらず、内側に曲げられている。
「はい、横森くん、なんでしょうか?」
「ええと、もし美禰子が『偽善』をしてるならそれはなんのためなんです? 三四郎や野々宮に良く思われたいからですか? それともわざとそうやって嫌な女って思われたいんですか?」
「ああ、なるほど。広田先生の説明を聴くとその両方に思えちゃいますよね。しかし、これもみなさんで考えてみましょう。どうです? 美禰子は『偽善』を為してましたかね? で、していたとするならそれはどういう意図のもとにでしょう?」
未玖が背筋を伸ばした。窓枠によりかかったまま高槻さんは指を向けている。
「篠田さん、なにか意見がありそうですね。お願いします」
「あ、はい。いま話してる『偽善』と同じかはわからないですけど、引っ越しのときに美禰子はサンドイッチを持ってきたり、広田先生の服を畳んだりしてましたよね。そういうのっていかにも女子っぽい感じですけど、私にはちょっと『偽善』っぽく思えました。それに美禰子らしくないようにも思えちゃうんです」
「ふむ。目のつけどころがいいですね。確かにそういうふうにも思えるシーンでしたよね。じゃあ、篠田さん、美禰子はどうしてそんなことをしたのでしょう?」
「はい。ふたつ考えられます。そういうのが普通に求められてたってのと、そこにいた男どもに女子力アピールをしたってのと」
「なるほど。女子力アピールですか。いいですね。他に意見はありませんか?」
加藤さんが振り向いた。目は細められている。
「では、加藤さん、お願いします」
「はい。いま篠田さんが言ったのはその通りだと思うんです。ただ、それ以外の部分での美禰子はやっぱり露悪家なんじゃないですか?」
「それはなぜ?」
「女らしさってのを押しつけたがる男からしたら美禰子の態度は『露悪』なんだと思うから。でも、自分の考えや好みを押さえてまで女らしくいるなんて馬鹿げてるし、美禰子はそういった馬鹿らしさを感じてるように思えます」
「いいですね。非常にいい。漱石は『偽善』と『露悪』という相反する言葉を使って人間を二分するのかと思いきや、それをごちゃっと混ぜてしまいました。これは登場人物に複雑さを持たせるやり口です。勧善懲悪物みたいに『善』と『悪』に分けないんですね。しかも、ただ単なる『善』でなしに『偽善』ですからね。まあ、それで僕たちは混乱させられてるんですが物語には深みが出ています。それに美禰子の為してると思われる『偽善』は、いまお二人から意見があったように女らしさという部分によくあらわれてると思えます。本心としてはそうしたくなくても周囲との折りあいをつけるためにしてしまうってことがあるでしょう? 社会生活を営む上で僕たちは自らの自然を抑えこんだり、隠したりしなければならない場合があるんです。それは『らしさ』と言ってもいいものですよね。たとえば僕はこのような言葉づかいでみなさんに話してますが、普段はもっと適当な言葉でしゃべってます。まあ、一応は講師らしさってのを出すようにしてるわけです。つまり自然ではないんですね。いえ、この場においては自然に見えるでしょう。それは講師というのはそういうものだという相互理解や圧力めいたものがあるからです。ただ、それは僕の自然とは異なってるんですね。――と、このように考えると美禰子には意図された不自然さがあるように思えます。僕が幾度か言った彼女のブレというのはそのあらわれなのかもしれません。では、これまでは美禰子についてだけ考えましたが、他の登場人物はどうでしょう?」
ノートを取り、高槻さんは窓際へ戻った。風がもじゃもじゃの髪を揺らしてる。
「篠田さんが指摘したように、引っ越しのシーンで美禰子はいわゆる女性らしい行動をみせてました。それは、いま話した考えによると広田先生の言う『偽善』のあらわれともとれます。ただ、態度には『露悪』な雰囲気がつきまとってるという加藤さんの意見もその通りに思えます。では、他の登場人物たちはどうかというと、彼らも同様に偽善的であり、同時に露悪的でもあるんです。広田先生はよし子も露悪家であると言ってます。与次郎なんかはその領袖だと断じているし、三四郎もその一人なんだろうと言ってますね。それに、もし求められる『らしさ』に従うのが『偽善』の一種だとすると、女性のみならず、上下関係や社会的地位に縛られてる男性たちも『偽善』を為してるといえるのでしょう。つまり、美禰子ばかりが偽善者ではないんですね」
横森さんが手を挙げた。さっきと同じように指に力は入ってなかった。
「はい、横森くん、なんでしょう?」
「あの、『偽善』はそうなのかもしれないけど、他の登場人物の『露悪』がよくわからないんです。いえ、与次郎は別ですけど」
「うん、そうですか。では、『露悪』についてですが、いえ、利己主義にしましょうか。ま、どっちでもいいですがね。――ええと、それを考えるにはまず菊人形を見にいったときのことを思い出してみましょう。百十九ページですね。このシーンで大声をあげながらおもらいをしてる人を見かけた三四郎は気にしつつもそのまま通り過ぎます。で、このような感想を持つんですね。
『三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷けられるような気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが募った事実を反省して見ると、自分よりもこれら四人の方がかえって己れに誠であると思い付いた。また彼らは己れに誠であり得るほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるという事を悟った』
この『都会人種』というのは、広田先生が言っていた『極めて神経の鋭敏になった文明人種』と完全に一致しないものの、ほぼ同一の意味に思えます。利己主義が蔓延してるんですね。まあ、すくなくともこのとき交わされていた会話は露悪的なものでしょう。そういう意味では、この物語に出てくるすべての者が偽善者であり露悪家でもあるんですよ。批判的に言っていた広田先生自身もそのひとりというわけです」
腕時計を見て、高槻さんは首を引いた。顎は硬くなっている。
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