小説『stray sheep』先頭へ

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「では、はじめましょう。つづきを読みますよ。

 

『裏から回って婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないという。三四郎は勝手口に立って考えた。婆さんは気を利かして、まあ御這入おはいりなさい。先生は書斎に御出おいでですからといいながら、手を休めずに、膳椀を洗っている。今ゆうめしが済んだばかりの所らしい。

 

 三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。戸が開いている。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入った。先生は机に向っている。机の上には何があるか分らない。高い脊が研究を隠している。三四郎は入口近くに坐って、

「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔を後へ捩じ向けた。髭の影が不明瞭にもじゃもじゃしている。写真版で見た誰かの肖像に似ている』

 

 さて、この章は短いんですよ。ただし、内容は非常に濃いです。なにしろ休憩前に言った謎解きが書かれてますので。では、このまま最後まで読んでください」

 

 

 唇を噛みながら私は本に目を落とした。気になることが多すぎたのだ。ただ『自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子の傍に野々宮さんを置くとなお苦しんで来る』という部分を読んだときには顔をあげた。紙切れが放られてきた。『また亀井が見てる』と書かれたものだ。私はその紙をくちゃくちゃにした。

 

 

 

 

「もういいでしょうか。では読み解いていきましょう。――と言いつつ悪いんですが、ここは僕も理解しきれていないところが多いんです。何度考えても一定した意見が持てない部分でもあります。なので、みなさんと一緒に考えたいんですよ」

 

 

 黒板に向かい、高槻さんは左に『偽善』、右に『露悪』と書いた。

 

 

「僕が黒板に『偽善』と書いたのは二回目ですが、一度目はそれだけではなかったですよね。憶えてます? では、安川さん、僕が前に書いたのはどういう言葉でしたか?」

 

 

「あ、はい。『無意識の偽善』でした」

 

 

「そうでしたね。それは『三四郎』の評論なんかによく出てくる言葉であり、漱石がこれを書くにあたって動機のひとつとしたと言われてるものです。ただ前にも言いましたが理解しやすいようで、つかみどころのない言葉なんですね。こういう場合は分解してしまいましょう。つまり『無意識』と『偽善』にです。これでちょっとは理解しやすくなったはずです。では、『無意識』の方ですがこれはどういった意味でしょうか? じゃあ、堀田くん、これはどういう意味ですか?」

 

 

「ああ、」

 

 

 腕を組み、堀田さんは首を引いている。考えてるようにも考えてないようにもみえる顔つきをしていた。

 

 

「それこそ無意識に使ってる言葉を説明するのは難しいものですよね。しかし、書き手である僕たちはこういう訓練をしといた方がいいんです。普段からそうしてると置き換えるべき言葉がすぐに浮かんできますから。――で、どうでしょう? 説明できますか?」

 

 

「ええとですね、その、意識が無いってことですから、いや、そうじゃないか。――ああ、気づかないでしてるってことです?」

 

 

「そうですね。『無意識に身体が動いてた』とか言いますものね。それは『気づかずに』と言い換えることもできます。いいでしょう」

 

 

 堀田さんは「うむ、うむ」とでもいうようにうなずいている。また紙が放られてきた。『なによ、あのデブ。ずいぶんエラそうじゃない』と書いてあるものだ。

 

 

「では、ついで『偽善』です。これについては広田先生が説明してましたね。そこを読みましょう。百六十九ページです。

 

御母おっかさんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。われわれの書生をしている頃には、する事為す事一としてひとを離れた事はなかった。すべてが、きみとか、親とか、国とか、社会とか、みんなひと本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、ぜんぜん自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過てしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある』

 

 うーん、すこしばかり難しいことを言ってますね。しかしこれは前の部分を承けての言葉ですから仕方ないでしょう。で、この場合の『偽善』とは社会との関わりにおいて利他主義的な行為をする、と読めますね。広田先生はこのようにも言ってます。『僕が学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だろう』――うん、ここは新井田さんに読みあげてもらいたいですね。いや、冗談はさておき、このように漱石は『偽善』の範囲を押し広げてるんですね。これも『無意識の偽善』が理解しにくい理由のひとつでしょう」

 

 

 黒板を眺め、高槻さんは『偽善』の下に『本心のともなわない上辺だけの善き言動』と書き足した。

 

 


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《雑司ヶ谷に住む猫たちの写真集》

 

 

雑司ヶ谷近辺に住む(あるいは
住んでいた)猫たちの写真集です。

 

ただ、
写真だけ並べても面白くないかなと考え
何匹かの猫にはしゃべってもらってもいます。

 

なにも考えずにさらさらと見ていけるので
暇つぶしにどうぞ。