「はい? えっと、野々宮のことも好きだからだと思いますけど」
「ま、そうなのでしょう。いえ、同じような質問をさっきもしてましたね、すみません。――ところで、美禰子が少し笑うようにしたのを見た三四郎ですが、彼にはその表情の意味がわかりません。というか、漱石がそのように書いてるんですね。この一文はけっこう重要ですよ。『能く分らない』と切って捨てることで読み手の思考を止めてるんです。それと同時に強調もしています。美禰子が少し笑ったというだけで終わらせたら、この部分の意味がうまく伝わらないんです。そこをもう一度読んでみてください。百五十六ページですね」
高槻さんは半分笑ったような顔つきをしてる。私はすこしだけ呆れていた。教室で起こってることもコントロールされてるように思えたのだ。
「どうでしょう? この一文を入れるか入れないかで全体の印象が大きく変わりませんか? 書き手は端々にまで気を入れなければなりません。そう思わされる件ですね。――ああ、もうこんな時間か。なかなか休憩にたどり着けませんね。でも、あともうちょっとです。さて、この二人の関係は皮肉なことに野々宮くんを介することで煮詰まっていきます。まあ、美禰子の心には野々宮くんがいるわけで、そこにふらっと気になる男があらわれたんですからそうなって当然なのでしょう。ええと、百六十ページにこういうところがあります。読みますよ。
『「野々宮さんに御逢いになってから、心細く御なりになったの」
「いいえ、そういう訳じゃない」といい掛けて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんといえば、今日は大変働いていますね」
「ええ、珍らしくフロックコートを御着になって――随分御迷惑でしょう。朝から晩までですから」
「だって大分得意のようじゃありませんか」
「誰が、野々宮さんが。――あなたも随分ね」
「何故ですか」
「だって、まさか運動会の計測掛になって得意になるような方でもないでしょう」
三四郎はまた話頭を転じた。
「先刻あなたの所へ来て何か話していましたね」
「会場で?」
「ええ、運動場の柵の所で」といったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」といったまま男の顔を凝と見ている。少し下唇を反らして笑い掛けている。三四郎は堪らなくなった』
よくできたシーンですね。まあ、こういう美禰子が嫌いだっていう人も多くいることでしょうが、僕は好きですよ。ただ、この部分はさっきの延長です。その上、美禰子の心情は推し量るしかないんです。三四郎については『堪らなくなった』と書かれてますが、美禰子は言動しかわかりませんから。いえ、それだって漱石がそう書いてるってことですよ。で、読み手が混乱してるだろうと思うところへちょっとした謎解きを用意してるんです。それが次の章なんですね。さてさてどうなることでしょうというところで休憩に入ります。みなさんお疲れのようだから十五分とりましょう」
難しそうな顔つきで柳田さんは黒板を見つめてる。加藤さんはすっと立ちあがり、窓の方へ向かった。それを目で追ってると未玖が腕をつかんできた。
「ね、亀井って、ずっとあんたのこと見てるのよ。知ってた?」
「嘘」
「嘘じゃない。さっきから気になってたの。あんたの方を見るたびに目が合うんだもん」
「未玖のこと見てるんじゃないの?」
「ううん、私じゃない。結月を見てんのよ。ほんと気色悪い」
窓の方を睨むように見て、未玖は立ちあがった。
「屋上に行こう。昂平さんがいるはずだから、もっとエグい質問するようけしかけようよ」
階段を上ってるあいだも未玖はしゃべりつづけた。私は「ふうん」とか「そうなの」とこたえていた。いろんなことが気になって、なにを言われてるかよくわからなかったのだ。
「あ、いた」
「ん? バレてたか。ここで喫ってんの」
「そりゃバレてますって、昂平さん」
「あのね、そう呼ぶのやめてよ。そっちがバレたら面倒な感じになるでしょ」
高槻さんは顔を向けてきた。困った表情を浮かべていたから、私も似たように整えた。
「だって、他に呼びようがないし。先生ってのも嫌なんでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「じゃ、もっとエグい質問してくれたら学校ではそう呼ばないようにする。私、ああいうの大好き。さっきだって妙な雰囲気がぷんぷんとたちまくってたもん。結月、そうだったでしょ?」
「まあ、そうだったけど」
「ね、だから、もっと面白くなりそうなの。もうちょっとだけやってみて」
「いや、今日はあれくらいで抑えといた方がいいんじゃないかな。最後に質問したとき、ほら、加藤さんにさ、あのとき凄い目で睨まれちゃったんだよ。ああいうのはキツいよな。それに次の章はけっこう面倒なとこなんだ。現実の三角関係を弄りまわす余裕はあまりないかもしれない」
「ふうん」
「まあ、まだ時間はある。そのうちお望み通りのことをしてやるさ。ほら、もう戻ろう」
そう言って高槻さんは頭に手を添えてきた。未玖はにんまり笑った。私は目を上向きにさせ、身体を強張らせた。
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