徐福伝説(「伝説の扉」より一部抜粋)(2023.11.16) | 京翁の独り言

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 今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福という人物がいました。徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱・方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)」と始皇帝に報告しました。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。また、中国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。

 徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。
 日本各地に徐福伝説は存在します。歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれません。数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,熊野市,新宮市,富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などがあります。また、「中国徐福会」や「日本徐福協会」があり、国際シンポジウムも行われています。

 京都には日本海を対馬海流にのって北上した徐福の船が丹後半島伊根町にたどり着きました。日本三景の一つ「天橋立」の近く,「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に徐福にかかわる伝説が残っています。ここにある新井崎(にいざき)神社はその徐福を祀 っています。私はまだ行ったことはないですが、いつか行ってみたいです。

 

徐福传说(摘录《传说之门》的一段)

   2200多年前,当日本即将从绳文时代转向弥生时代时,秦朝时期的中国有一个名叫徐福的人。 徐福告诉秦始皇,远东海域有蓬莱,方丈,瀛洲的三座神山,在山上隐士居住,他想去那里求长生不老的丹药(司马迁《史记》)。 这个愿望实现了,他花了巨资出发了一次,但他向秦始皇报告说他无法到达,因为被鲸鱼挡住了(也许他把台风比作一条大鲸鱼)。 于是,始皇许可这艘船在大批工程师和年轻人的陪同下再次起航。 带着三千名青年男女,被决定大船队再次启程。 而中国史书中记载,“他为平原广泽王,不回国”。 据说这个“平原广泽”是日本。事实上,日本各地都有这样的传说:徐福乘船离开中国,到达日本并定居下来,他的后人称为「秦hata」。另外,在中国,有一个有趣的理论:徐福是日本的神武天皇。

  据说,徐福出国时,带去了稻米等五谷的种子,以及金银、农具、技术(五谷百艺)。 一般认为,水稻种植是在弥生时代初期从大陆或朝鲜半岛传入日本的,但实际上似乎是徐福将其带到了日本,而且徐福似乎深入参与了日本的国家建设。

  日本各地都有徐福的传说。可能是因为我们想来珍惜把它不是当作历史事实而是当作历史浪漫。 众多传奇之地中,有佐贺县、鹿儿岛县、宫崎县、熊野市、新宫市、富士吉田市、京都府与謝郡、爱知县等。 此外,还有“中国徐福会”和“日本徐净福协会”,也举办国际研讨会。

  在京都,徐福的船沿着日本海的对马海洋流向北行驶,抵达丹后半岛的伊根町。 位于日本三大名胜之一的天桥立附近,以船屋闻名的京都府与謝郡伊根町,有着关于徐福的传说。 位于此处的新井崎神社供奉着徐福。 我还没去过那里,但有一天我很想去。