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右岸と左岸を結ぶ橋。橋は、私の知らない世界へ連れて行ってくれるもののように感じる。困難を表現するものには、壁や谷が代表的であるが、都市部では川だろう。川に一本の橋が架かるというのは、思いの外、とても大きなことのように感じる。


現代で例えるなら、輸送機器の発達で国と国が近くなったことで、かつては、それぞれ独立した国であったものがいまや航空機ですべての国々がすべてが繋がっている。かつては異質の地域を繋いだのは、橋であったはずだ。


外交などの話題でも、”両国の橋渡し”という言葉があるように、橋というものは2つのものを繋ぐ役割も持っている。よく知る馴染みの街から橋を渡った先にある新たな世界へと向かう人を橋は静かにその時を待っている。


橋を渡ったその先には、平らなアスファルの道ではなく、土の道、または砂利道のような道のりが待っているかもしれない。足を元をしっかりと見据えていないと怪我をしてしまうような道のりかもしれない。


高速道路のような道では運転技術はそれほど問われない。しかし、悪路では、運転技術だけが頼りになる。それでも、いやそれだからこそ、単調な道よりも自分の運転技術を磨きながら進む道の方を私は選ぼうと思う。


まだ見ぬ未知の世界へ橋を渡ってみようではないか。


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パリの橋

パリを東西に流れるセーヌ川には、現在37の個性的な橋が架かっている。その中で1607年に完成した、現存する最古の橋、ポン・ヌフ(Pont Neuf)。


「新橋」を意味するこの橋は、建設当初はその斬新さによって注目を集めた。従来の橋と異なり、橋の両端に建物がないこと。車道と歩道が分かれていたこと。公共の場に初めて彫像が置かれたこと。この彫像はアンリ4世の騎馬像だが、現存するものは1818年に作り替えられている。

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マリー・アントワネットとパリの街5


1774年5月10日にルイ15世が亡くなると、マリー・アントワネットは、夫であるルイ・オーギュストが王に即位し、ルイ16世になったことで王妃になる。

マリー・アントワネットはこのとき19歳だった。そして、夫からヴェルサイユ宮殿にあるプチ・トリアノンという宮殿から少し離れた場所にある離宮を贈られ、マリー・アントワネットは、本宮殿での窮屈な暮らしを離れて、プチ・トリアノンで多くの時間を過ごすようになる。



プチ・トリアノンはルイ15世と愛妾ポンパドゥール夫人が過ごす離宮として1762年~68年に建てられた。

マリー・アントワネットは、室内装飾を自分好みに改装しナチュラルなモチーフを用いたり、周囲に庭園をつくったり、ちいさな農村をつくって農業をしたり、小劇場をつくって芝居をしたりした。

庭では音楽家が演奏し、作家ボーマルシェをよんで「フィガロの結婚」を朗読させたり、マリー・アントワネットの芸術家気質が伺える。


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文化とは労働とは別の場所で生まれるもののように感じる。衣食足りて礼節を知るという諺があるが、衣食という基礎が充足されないうちは、文化というものが培われる土壌が整わないように感じる。

ただ、樋口一葉のように貧しい暮らしの中でも才能を培った人が日本にはいるからそうとも言い切れない部分があるのだが、多くの場合、文化とは衣食足りたあとに生まれるものではないかと思う。


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↑ 愛の殿堂

プチ・トリアノンから小川にそって北に進むと、神殿風の「愛の殿堂」がある。マリー・アントワネットがスウェーデンの大貴族の息子でパリに貴族として勉強に来ていたフェルセンと密会を重ねたというエピソードがのこる場所だ。


フェルセンはプレイボーイで女性の噂が多くあったというが、一度燃え上がった恋の炎を消すことは出来なかったのだろう。


恋とは人生に彩りを与えてくれるものだ。白黒映画がカラーに変わるように恋をすると世界の見え方が変わる。

恋がなくても生きては行けるが、恋が始まるとなぜもっと早く恋をしなかったのかと思ってしまうほど恋の力は大きい。人生を生きるとは恋そのものであるように思えてくるから不思議なものだ。

そして、恋が破れると人生が終わってしまったような絶望感が襲い、この先どうやって生きて行ったらよいかわからなくなる。


決して実ることにないフェルセンとの恋にマリー・アントワネットはどんな思いで「愛の殿堂」で逢瀬を重ねていたのだろうか。

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マリー・アントワネットとパリの街2

マリー・アントワネットはフランス人ではなく、隣国のオーストリアのウィーンで、新生ローマ帝国皇帝フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの第15子として生を受けた。


マリー・アントワネットが生まれた18世紀のヨーロッパは、いくつもの国が領土争いをつづける群雄割拠の時代だった。


マリー・アントワネットが生まれたオーストリアとのちに嫁ぐことになるフランスは、17世紀以来ずっと対立関係にあった。


しかし、新興国のプロイセン王国(ドイツ)が勢いをましてきたために、脅威に感じたオーストリアとフランスが1756年に同盟を結ぶことになった。


そしてルイ・オーギュスト王太子(のちのルイ16世)とオーストリア皇女のマリー・アントワネットの政略結婚に繋がった。ルイ・オーギュスト17歳、マリー・アントワネット15歳、若い二人の結婚式は、1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿で行われた。


ガラス張りの馬車に乗っている若い二人を見ようと多くのひとが集まっていた。馬車が進む道には花がまかれ、オーストリアからきた王太子妃の若さと美しさに目を見張ったという。広場には、ワインや丸焼きの牛、大きなカゴには山盛りのパンが並んで結婚を祝った。

つづく