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マリー・アントワネットとパリの街6


1778年(23歳)のちに起こるフランス革命の引き金のひとつとなる大きな決断がルイ16世によって行われた。アメリカ独立戦争への援助だ。


アメリカ独立戦争は、イギリスの植民地であったアメリカがイギリスから独立するために行った戦争(1775年~1783年)で、イギリスと仲の悪かったフランスは、欧州でも覇権を強めるためにアメリカを支持した。不況であったフランスは、アメリカ支援のために税金を引き上げることになった。これが民衆の王制政治への不満が高まる原因となった。


1781年10月22日、待望の王子(ルイ・ジョゼフ)の誕生に沸き返るベルサイユ宮殿とは裏腹に各地で暴動が起こっていた。この頃からマリーの散財は止まらなくなっていった。



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ローズ・べルダンの新作のドレス、レオナールの提案する奇抜なヘアースタイル、プチ・トリアノンに小さな小劇場をつくりルイ16世の弟アルトワ伯と一緒に芝居を楽しみ、プチ・トリアノンの庭園に人口の小さな農園「アモー」をつくった。


そのときフランス国内では1782年の飢饉で多くの人が亡くなり、1784年のパリでは生活に苦しんでいるひとが50万人いた。



1789年(マリー・アントワネット34歳)7月14日、バスティーユ監獄が民衆に襲われてフランス革命が起こる。


多くの民衆は革命が何かもわからず革命はどんどん進行していった。民衆の生活が苦しいのは王制が悪いのだと。


贅沢な暮らしをする貴族、その代表として敵国オーストリアからきて贅沢な暮らしをしていたマリー・アントワネットがやり玉にあげられた。


マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」言ったという嘘が民衆の間に広まった。根も葉もないでっちあげだったが、民衆の不満のはけ口をこのときは必要としていた。


怒れる民衆がヴェルサイユ宮殿へ押し寄せた。そのとき、マリー・アントワネットは命の危険を顧みず、そして周囲の反対を振り切ってバルコニーに出て、民衆の前に姿を現した。マリー・アントワネットを見た民衆は静まりかえったというエピソードは有名だ。


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しかし当時は灯りはロウソクだったはずなので、バルコニーにでたマリー・アントワネットの姿は民衆からは果たして見えたのだろうか疑わしい。


ピストルで狙われるという命の危険を顧みず、民衆に姿を現したマリー・アントワネットの王妃として、なによりもこの時は子供たちを守る母としての、気迫のようなものが民衆に伝わったに違いない。


その後、民衆から要請で国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移った。


つづく

マリー・アントワネットとパリの街7

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マリー・アントワネットとパリの街5


1774年5月10日にルイ15世が亡くなると、マリー・アントワネットは、夫であるルイ・オーギュストが王に即位し、ルイ16世になったことで王妃になる。

マリー・アントワネットはこのとき19歳だった。そして、夫からヴェルサイユ宮殿にあるプチ・トリアノンという宮殿から少し離れた場所にある離宮を贈られ、マリー・アントワネットは、本宮殿での窮屈な暮らしを離れて、プチ・トリアノンで多くの時間を過ごすようになる。



プチ・トリアノンはルイ15世と愛妾ポンパドゥール夫人が過ごす離宮として1762年~68年に建てられた。

マリー・アントワネットは、室内装飾を自分好みに改装しナチュラルなモチーフを用いたり、周囲に庭園をつくったり、ちいさな農村をつくって農業をしたり、小劇場をつくって芝居をしたりした。

庭では音楽家が演奏し、作家ボーマルシェをよんで「フィガロの結婚」を朗読させたり、マリー・アントワネットの芸術家気質が伺える。


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文化とは労働とは別の場所で生まれるもののように感じる。衣食足りて礼節を知るという諺があるが、衣食という基礎が充足されないうちは、文化というものが培われる土壌が整わないように感じる。

ただ、樋口一葉のように貧しい暮らしの中でも才能を培った人が日本にはいるからそうとも言い切れない部分があるのだが、多くの場合、文化とは衣食足りたあとに生まれるものではないかと思う。


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↑ 愛の殿堂

プチ・トリアノンから小川にそって北に進むと、神殿風の「愛の殿堂」がある。マリー・アントワネットがスウェーデンの大貴族の息子でパリに貴族として勉強に来ていたフェルセンと密会を重ねたというエピソードがのこる場所だ。


フェルセンはプレイボーイで女性の噂が多くあったというが、一度燃え上がった恋の炎を消すことは出来なかったのだろう。


恋とは人生に彩りを与えてくれるものだ。白黒映画がカラーに変わるように恋をすると世界の見え方が変わる。

恋がなくても生きては行けるが、恋が始まるとなぜもっと早く恋をしなかったのかと思ってしまうほど恋の力は大きい。人生を生きるとは恋そのものであるように思えてくるから不思議なものだ。

そして、恋が破れると人生が終わってしまったような絶望感が襲い、この先どうやって生きて行ったらよいかわからなくなる。


決して実ることにないフェルセンとの恋にマリー・アントワネットはどんな思いで「愛の殿堂」で逢瀬を重ねていたのだろう。

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マリー・アントワネットとパリの街1

マリー・アントワネットとパリの街2

マリー・アントワネットとパリの街3




マリー・アントワネットとパリの街4


朝帰りをしたマリー・アントワネットがひとやすみするとはじまったのが、朝のおつとめだった。衣装係の女官がノートをもって寝室に入ってきて、マリー・アントワネットはノートに書かれたすべての衣装から、その日に着る衣装を選んだ。


朝の衣装からはじまり、昼食に着る衣装、そしてディーナーパーティーの衣装を決めてゆく。衣装には下着やぼうし、手袋、ストッキングも含まれていたのでたいへんだったことだろう。


しかも、一度着た衣装は再び着ることはないので、日に日に衣装リストが増えていく中からの選択だから尚更たいへんだった。女性には楽しみだったかもしれませんが。




そして、選ばれた衣装をマリー・アントワネットに手渡すことができるのは、女官の中でも一番高い位のひとの役目だった。


マリー・アントワネットが自ら衣装を脱ぐ、または着ることはなく、まるで着せ替え人形のように、マリー・アントワネットは立っているだけで、衣装を脱がせて着せるのはすべて衣装係の役目だった。


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私の上司で元大手商社に務めていた商社マンのひとがいたのだが、彼は南米のチリに駐在した経験談をよく語ってくれたものだった。


その中でも日本では考えられないのは、女中さんを2人も雇っていたことだった。(チリの法律で、日本人一人に対して現地人を5人だったか雇わなければならない決まりがあったそうだ。)


女中さんは掃除洗濯、食事の用意まで何でもしてくれたという。駐在をはじめて間もない頃、シャワーを浴びて浴室を出ると女中さんがタオルを広げて待っていた。


驚いた彼は、慌てて女中を追い払ったそうだが、翌日オフィスでその話しをすると、主人の体をタオルで拭くのは女中さんの仕事のひとつになっていることを知った。


はじめのうちは恥ずかしかったそうだが、7年半の駐在した最後は、女中さんがタオルで濡れた体を拭いてくれることが当たり前になり、日本に帰ってきたときにお風呂上がりにタオルを用意して自ら体を拭く感覚に戻るのに時間がかかったそうだ。


きっとマリー・アントワネットも着替えはすべて衣装係の女中さんが行ってくれることに戸惑いがあったのも最初のうちだけで、次第に慣れていったことだろう。


人間の順応性はすごいものがある。毎日の行いが習慣となるのはいい面もあるし、悪い面もあるので、日頃の行いには小さなことでも気をつけたい。


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衣装の次のおつとめは髪結い。パリからやってくるヘアーアーティストが、マリー・アントワネットの髪を50センチの高さに結い上げた。


髪飾りにも趣向がこらされていて、森に見立てたヘアースタイルには、果物の髪飾りを、街に見立てたヘアースタイルには、家の髪飾りで髪を飾った。


このヘアースタイルは流行し、貴婦人たちはせっかく整えたヘアースタイルを崩さないように、馬車に乗るときには、スカートをめくりあげて、馬車の床にひざまずいて乗っていたそうだ。


いつの時代でも女性はファッションためには犠牲をいとわないものだ。


つづく

マリー・アントワネットとパリの街5