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自分が生まれ育った場所は大人になっても大きな影響を及ぼすものだと感じる。江戸時代に植木の街として栄えた街に生まれ育った私は、いつも緑に囲まれて育った。

関東平野にある街だったので、まわりには山が見えるという環境ではなかったので、山が見える暮らしというものへの憧れがいまも心にある。

そして、街は内陸にあったので、水辺に近いところでの暮らしにもまた魅力的に感じていた。現在の住まいが、大きな川の近くにあるのも、そのためかもしれない。

ヨーロッパの列車に乗ると、流れる景色の中で、私の心をとらえるのは、いつも決まって雄大な山脈なのだ。雄大とひとことで表現してしまうことができないエネルギーをその山々から感じる。

雪を冠した山が連なる姿はときに美しくもあるが、ときには人間の小さなを感じ、その大きさが恐ろしくも感じることがある。


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車窓からみえた小さな小屋。この小屋にはどんな暮らしがあるのだろ。夜は満点の星空を眺めながら眠りにつき、朝は鳥のさえずりの音で目を覚まし、目の前に広がる山と緑を眺めながら、背伸びをする。そして、大地の恵みを口にすれば、甘味が身にしみる。

世界は美しい。

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マリー・アントワネットとパリの街7



マリー・アントワネットとパリの街8

1791年、マリー・アントワネットが36歳のとき、国王一家で国外逃亡を図るがヴァレンヌで逮捕されてしまう。このときまでは国王を支持する民衆も多かったというが、この一件で、民衆を捨てようとした国王への不信が高まってしまう。


マリー・アントワネットの夫であるルイ16世は、裁判で有罪判決となり、1973年マリー・アントワネットが38歳の時に処刑されてしまう。そのとき、王太子であった次男のルイ・シャルルに「王位についても民衆への仕返しを考えてはいけない」と諭したというから、その器量は素晴らしく大きかったように思う。自らを処刑するものを許してあげてくれというのだから、簡単にできることではない。


ルイ16世が処刑された1793年、マリー・アントワネット38歳のときに、実質結果が決まっている裁判にかけられてマリー・アントワネットは、10月16日の未明に死刑が確定し、同日12時に処刑が執行された。処刑が行われた場所は、現在のコンコルド広場である。

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マリー・アントワネットは処刑されるときも、ヒールの靴を履いていたというから最後まで王妃としての威厳を持ち続けていたのだろう。並大抵の精神力ではなかったと同じ年齢になった今、そう感じる。時代の流れに翻弄されただけで、マリー・アントワネットに罪はない。それでも、裁判の結果を受け入れて、ギロチンという残虐な方法で、民衆の前で命を奪われる。いったいどんな心境だったのだろうか。


赤字夫人と言われていたが、王家にかかる支出は出費総額の5~6%に過ぎず、そのうちマリー・アントワネット個人にかかる支出は、さらにその一部だけだった。宮廷の無駄遣いを改める提案も行っていたというから、当然ながら民衆の生活苦は決して彼女だけが原因ではなかったのだ。


一番の要因は、やはりアメリカの独立戦争を支援したことで、増税のために庶民の生活が圧迫されたことは否めない。


マリー・アントワネットがいまもなお人々を魅了するのは、時代に翻弄されながら、悲劇的とも言える人生を王妃として全うしたからではないだろうか。


コンコルド広場

コンコルド広場は、凱旋門とルーヴル宮を結ぶ一直線上にある、パリ随一眺望を誇る広場で、もともとは、ルイ15世の騎馬像を飾る目的で「ルイ15世広場」として1775年に完成したもの。コンコルドとは”調和”という意味で、現在、広場の中央には、1833年にエジプトから贈られたルクソール神殿のオベリスクが建つ。その左右に置かれた噴水上の女神像8体は、フランスの8大都市を象徴している。
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マリー・アントワネットとパリの街7

マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿を追われ移ったテュイルリー宮殿は、いまはなく、現在はテュイルリー庭園として、市民の憩いの場となっている。


元々は、1563年、王太后カトリーヌ・ド・メディシスがテュイルリー宮殿とイタリア式庭園を作らせたところ。


それを後に、ヴェルサイユ宮殿の造園で知られるル・ノートルが、シンメトリーと幾何学模様が特徴のフランス式庭園に整備した。


宮殿は1871年のパリ・コミューン(1871年3月18日から5月28日までの72日間、普仏戦争敗戦後のパリで、労働者階級を主とする民衆によって樹立された世界最初の社会主義政権で、パリの各区から選出された代議員によってコミューン(自治政府)を組織したが、プロイセン軍の支援をうけた政府軍に「血の一週間」と言われる大激戦ののちに崩壊。(デジタル大辞泉より))で焼失してしまった。


マリー・アントワネットには、フランス革命が起こる3年前の1786年(31歳)に次女のソフィー・ベアトリスを授かるがその翌年にソフィーが亡くなってしまい、さらに、フランス革命が起こる約1ヶ月前には長男のルイ・ジョゼフが亡くなってしまうという悲劇に見舞われている。


そして、1789年7月14日にバスティーユ監獄が襲われてフランス革命が起こるのだ。マリー・アントワネットは、きっと長男を亡くした悲しみの傷が癒えていない時だっただろうし、夫は国王であるので、マリー・アントワネットにずっと寄り添っていたいが、そういう訳にもいかなかったことだろう。


民衆の意向でヴェルサイユ宮殿からテュイルリ宮殿へつれて来られたが、美しい庭園もセーヌ川もきっと目には入らなかったのかもしれない。大きな心配事や悩みがあるときは、目の前のものが目に映っていても本当の意味では見ていないことが多くある。


フランス革命が起こったとき、マリー・アントワネットは34歳だったというから、その若さでフランスを背負っていたと思うと、その苦労は計り知れないものがある。あえて言うなら、美しい庭園でマリー・アントワネットの心の傷が少しでも癒えたことを願いたい。そう思いながらテュイルリー庭園を歩いてみるとまた感慨も一層深くなる。


つづく

マリー・アントワネットとパリの街8