マリー・アントワネットとパリの街7
マリー・アントワネットとパリの街8
1791年、マリー・アントワネットが36歳のとき、国王一家で国外逃亡を図るがヴァレンヌで逮捕されてしまう。このときまでは国王を支持する民衆も多かったというが、この一件で、民衆を捨てようとした国王への不信が高まってしまう。
マリー・アントワネットの夫であるルイ16世は、裁判で有罪判決となり、1973年マリー・アントワネットが38歳の時に処刑されてしまう。そのとき、王太子であった次男のルイ・シャルルに「王位についても民衆への仕返しを考えてはいけない」と諭したというから、その器量は素晴らしく大きかったように思う。自らを処刑するものを許してあげてくれというのだから、簡単にできることではない。
ルイ16世が処刑された1793年、マリー・アントワネット38歳のときに、実質結果が決まっている裁判にかけられてマリー・アントワネットは、10月16日の未明に死刑が確定し、同日12時に処刑が執行された。処刑が行われた場所は、現在のコンコルド広場である。
マリー・アントワネットは処刑されるときも、ヒールの靴を履いていたというから最後まで王妃としての威厳を持ち続けていたのだろう。並大抵の精神力ではなかったと同じ年齢になった今、そう感じる。時代の流れに翻弄されただけで、マリー・アントワネットに罪はない。それでも、裁判の結果を受け入れて、ギロチンという残虐な方法で、民衆の前で命を奪われる。いったいどんな心境だったのだろうか。
赤字夫人と言われていたが、王家にかかる支出は出費総額の5~6%に過ぎず、そのうちマリー・アントワネット個人にかかる支出は、さらにその一部だけだった。宮廷の無駄遣いを改める提案も行っていたというから、当然ながら民衆の生活苦は決して彼女だけが原因ではなかったのだ。
一番の要因は、やはりアメリカの独立戦争を支援したことで、増税のために庶民の生活が圧迫されたことは否めない。
マリー・アントワネットがいまもなお人々を魅了するのは、時代に翻弄されながら、悲劇的とも言える人生を王妃として全うしたからではないだろうか。
コンコルド広場
コンコルド広場は、凱旋門とルーヴル宮を結ぶ一直線上にある、パリ随一眺望を誇る広場で、もともとは、ルイ15世の騎馬像を飾る目的で「ルイ15世広場」として1775年に完成したもの。コンコルドとは”調和”という意味で、現在、広場の中央には、1833年にエジプトから贈られたルクソール神殿のオベリスクが建つ。その左右に置かれた噴水上の女神像8体は、フランスの8大都市を象徴している。