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パリで新聞社襲撃事件が起こった。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに故人のご家族、友人の方々には心よりお悔やみを申し上げます。


人と人がひとつの地球という場所で暮らしていくのだから、これからも摩擦は避けて通ることができないことであろう。しかし、生物学的な視点では、多様性のない生物は滅びるということがわかっている。人種、文化、考え方、さまざまな観点から多様性がある方が種が存続をしてゆくためには必要なのだ。

きょうは、ヴェネチア(ヴェニス)の運河から聞こえるゴンドラの船頭の歌声がこころなしか悲しみを帯びて聞こえてくる。

旅行前、暇を潰そうと立ち寄ったレンタルビデオ屋さんで映画「ヴェニスの商人」(主演:アルパチーノ)を借りた。ヴェニスを訪れる前に見てみようと思ったのだ。

「ヴェニスの商人」という言葉を耳にしたことはあるが、どんな内容のものかはまったく知らなかった。そして、ヴェニスの商人がロミオとジュリエットを書いたウィリアム・シェイクスピアの作品であることをはじめて知った。

映画を見てまだ間も無いこともあり、正直言って「ヴェニスの商人」を通じてシェイクスピアが一体何を伝えたかったのかまだ消化できていない。ただ、さまざまな場面で、訴えたいことが隠されえているような気がしたのだ。

ストーリーは、恋愛と復讐が大きなテーマになっているように思う。ポーシャという莫大な財産を相続した貴婦人に恋をしたバサーニオが、彼女に見合った男として認められるように、友人の貿易商人であるアントーニオにお願いをして、強欲なユダヤ人の金貸しからお金を借りる。

16世紀のヨーロッパ社会で、ユダヤ人は迫害をされていて自由都市のヴェニスにおいても例外ではなかった。ユダヤ人はゲットーという地域に住まわされていて、夜になるとキリスト教徒が鍵をかけて見張ったという。そして、日中に外出するときは、赤い帽子の着用が義務ずけられていた。ヴェニスの法律ではユダヤ人が土地を持つことが許されていなかったので、お金に利子をつけて貸すことを生業とするいわゆる金貸しを行っていた。しかし、金貸しとして、利子をつけて貸すことにも批判があった。

そのためが、ユダヤ人金貸しのシャイロックは利子ではなく、心臓に一番近い部分の1ポンドの肉を担保として証文にサインをするなら、お金を貸してもよいという条件をアントーニオに出し、アントーニオは了解をする。このときは、アントーニオには数ヶ月後に借りたお金の何倍かのお金が貿易によって入ってくることになっていた。

しかし、アントーニオの貿易船が難破して返済をすることができなくなってしまう。ユダヤ人というだけで迫害をうけていたシャーロックは、アントーニオから受けたこれまでの屈辱もあり、証文どおりアントーニオから担保である1ポンドの肉を求めて裁判を起こすのだ。

その中でシャイロックが裁判で復讐を誓う場面と裁判で法学博士がシャイロックに1ポンド肉のかわりに2倍のお金でアントーニオを許してくれるように説得するという2つの場面がとくに印象に残っている。

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肉を取るなんていうなというアントーニオの友人の問いかけに金貸しのシャイロックが復習を宣言するセリフがある。


「ユダヤ民族を見下し、商売を邪魔して、私に敵をけしかけた。ユダヤ人というだけで。

ユダヤ人には目がないか?手がないのか?内臓や体つき、感覚、感情、情熱、食べ物が違うのか?刃物で傷がつかないか?同じ病気にかからず、同じ薬で治らないか?同じ季節の暑さ寒さがキリスト教徒と違うのか?針で刺しても血が出ないのか?くすぐっても笑わないか?毒を盛っても死なないのか?迫害されても復習しないのか?それだってあんたたちと同じだ。

ユダヤ人に迫害されたらどうする?復習か?我々だって迫害されたら同じことさ。キリスト教徒を見習い、復習する。お前たちの仕打ちを真似してやる。どれだけ苦労をしてもお手本より上手にやるぞ。」

(映画「ヴェニスの商人」より)



そして、裁判が行われ法学博士がシャーロックに慈悲をアントーニオに与えてほしいことを訴える場面。

慈悲は強制ですかというシャイロックに対して法学博士は

「(慈悲は)天から降り注ぐ恵みの雨のようなもの。与える者と受ける者、慈悲は二重の祝福となる。最高の者が持つ最高のもの。

王冠より王にふさわしい。王位が示すのは一時の権力。敬いと尊厳を誇示し、王への恐れをあおる。だが慈悲は、王位による支配を越え、王たる者の心に君臨する。神ご自身の象徴なのだ。地上の権力は正義に慈悲が加わると神の力に近づく。

お前の訴えは正当だがそこを考慮しろ。正義のみを追求すれば救いはない。人は神に慈悲を乞う。その祈りは隣人にも慈悲を施せと我々に説いている。正義を和らげてはどうだ?厳格なるヴェニスの法廷は商人を裁かねばならぬ。」

(映画「ヴェニスの商人」より)


人類は少しずつ前進しているが、16世紀を生きたシェイクスピアから学ぶことも多いような気がして、彼の作品を読んでみようかと思う。

教会の鐘の音が、運河の上を悲しみにくれる人の感情のように漂っているように感じる。
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イタリア・ヴェネチア 顕在意識と潜在意識2

ヴェネチアの街を歩いていると小さな路地に巡り会う。まるで秘宝へ繋がる道のようにも思えて、この先には一体なにがあるのだろうかと気分が浮き立ってしまう。


路地の先には、お店があったり、住民の住む家があったりするのだが、なんだがおとぎの世界へ迷い込んでしまったような錯覚をときに覚える。


一方で、おとぎの国とは対照的にかつて暮らした東京谷中の下町の路地を思い出し、夢と現実の間を行き来しているような不思議な感覚だ。


不思議な感覚を味わいながら、永く眠っていた記憶がふと蘇ってきた。それは、私が大学を卒業したあと、専門学校に通いながら、昼間の勉強時間を確保するために、早朝のアルバイトをしていたときの記憶。


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アルバイトに行く朝の私の起床時間は午前5時であったが、父は5時前には起きていた。朝が苦手なこともあり、そして大学を出してもらったにもかかわらず就職をしていないという後ろめたさのようなものが父にはあったので、父と話しをすることを無意識に避けていた。


だから、父が早起きをすることに当時は疎ましくさえ感じていた。いまさらながらそれは私のためを思ってしてくれたことなのだと気がついた。短い時間でも私とのコミュニケーションをとろうとしてくれていたのだと。


そして、やはり父親として皆が就職をする中で、ふらふらとしている息子を心配していたのだと感じる。父が早起きをするようになったのは、私が早朝のアルバイトをはじめたころと重なる。偶然とは思えない。


出勤前に新聞をチェックしているのだと父は言っていたが、きっと本当の理由ではなかったのだろう。真冬の早朝は暗く寒い。そんなときも私よりも早く起きて暖房を焚いて部屋を暖めてくれていた。会話にならない短い返事しか返さない息子に対して、何気ないふりをしながら一生懸命話題を探して、話しかけてくれていたのだろう。


多くの会話はなかったが、たとえ短い時間でも、一緒の空間で同じ時間を過ごすということを大切に思ってくれていたのだと思う。


わたしも父のような父親になりたいと感じた。
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きょうは天気がよくて気持ちがいい。

旅行に出ると思いもがけない友人のことが頭に浮かんで、あいつはいま何をしているのかなと思うことがある。自分のことはさておき。不思議なものである。そして、旅行から戻ったら連絡をしようとそのときは思うのだが、実際に連絡した試しがない。そんな経験が何度もある。

意識は、顕在意識と潜在意識があるという。氷山に例えるなら海面にに出ている部分が顕在意識で、海面下に隠れている部分が潜在意識ということにある。わたしたちが認識をしている顕在意識よりも潜在意識の占める割合の方が多く、全体の約9割を潜在意識が占めているというから驚きだ。


旅に出ると海面の下に眠っていた氷山のかけらが、いつもと違う刺激でひょっこりと海水面にぷかりと浮いてくるのだろう。思いもかけない友人の顔がとつぜん思い浮かぶのはまさに海面下からぷかりと浮かんでくるような感覚がする。



考えごとをするのに適した場所を、三上(さんじょう)というが、馬の上で馬上、枕の上で枕上(ちんじょう)、そして厠の上で厠上(しじょう)の3つのこと。

三上にいるときというのは、顕在意識と潜在意識が交錯する瞬間なのだと思う。

現代でいえば、馬上というのは、旅行中のことをいうのかもしれない。私は旅行中、とくに車窓を流れる景色を見ているときに、友人のことを思うことがあるからだ。

今度こそ、思い浮かんだ友人に連絡をしてみようと思う。

今度とお化けは、出た試しがないと言われるが。


つづく