神力品は付嘱を示していないという人がいた。
確かにわかりにくい面がある。
神力品のはじめは、上行等の地涌の菩薩の末法の誓願によって始まる。
即ち「世尊、我等仏の滅後、世尊分身所在の国土、滅度の処に於て、当に広く此の経を説くべし。
所以は何ん。我等も亦自ら、是の真浄の大法を得て、受持読誦し、解説書写して、之を供養せんと欲す」
と宣言
釈尊の答えは「汝等如来の滅後に於いて、応当に一心に受持、読、誦、解説、書写し、説の如く修行すべし。
所在の国土に、若しは受持、読、誦、解説、書写し、説の如く修行すること有らん。
若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし」
全く対句になっている。
地涌の「是の真浄の大法を得て」は、釈尊の答えの前に
「嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに猶尽すこと能わじ。
要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」
と示されている。
「嘱累」とは、日本国語大辞典(角川)には
「仏が弟子たちに教えを授けてのちに伝えるようその流布を委任すること」とある。
端的に言えば、上行菩薩が「末法の弘通をすること願う」。釈尊の答えは「末法の弘通をしなさい」となっている。