禅宗についてつくったパンフレットのテキスト
【座禅で悟れるには釈尊と同じ過去世の徳が必要】
釈尊は座禅をしていて悟りを得た。そうすると、我々も座禅をすれば悟れるのだろうか。もし、悟れるならば、釈尊の過去世の因縁と我々の因縁は同じということになる。釈尊のような因縁の持ち主が、世の中に多いようには感じない。そうすると何度も生まれ変わって修行をする曆劫(りゃっこう)修行が必要になる。
【悟りを求める人の特徴】
法華経には即身成仏が説かれているのに、なぜ曆劫修行を選ぶ必要があるのだろう。
ただ、人は真理を求めるストイックな人には憧れる。
また、「南無妙法蓮華経」と唱えていて悟りに至れる気がしないと考える人が大半だろう。
【ストイックな道元】
曹洞宗(禅宗)の開祖道元も法華経を多用したが、法華経で説かれる「法華経の読誦」を選ばなかった。涅槃経では「座禅では、悟りに至らない」とも説かれているが、これも用いていない。
また、道元が生まれた頃は、釈尊入滅後二千年経っていた。この時代を「末法」と呼び、釈尊の教えでは、悟れる人はいなくなると経典に説かれが、これも用いない。
釈尊の仏法で悟りを得ているとされる天台大師も「専ら法華経を唱え、座禅をせず」と説かれているがこれも用いていない。
先哲の言葉を信じず、道元はひたすら座禅をした。権力にすりよる事もなかった。このストイックさに悟りを求める人は憧れる。しかし、それは正しい選択だったのだろうか。
【禅宗の人の特徴】禅宗は、人間関係が破綻
日蓮大聖人は、「禅宗を信じる人は、釈尊、同等だという慢心を起こしている」と批判されている。釈尊とは因縁が違うことに気づけない。
この影響が禅宗の人の性格に現れる。禅宗の人と話をすると、上から目線の決めつける言葉が次々と出てくる。
・上から目線で人を評価する。
・人を小馬鹿にする発言が重なる。
・自慢話を長々とする。
・変に平等感がつよく、変に自信過剰だ。
・決めつけ形の話し方をする。
・孤独でも気にならない。
そんな人がいたら、「何宗」って聞いてみよう。
【道元も南無妙法蓮華経?】
ある本には、道元の最初の伝記「建撕記(けんぜいき)」に、最晩年、法華経神力品を読んでいて、木札に「南無妙法蓮華経庵」と書き、自分の部屋の入り口に掲げたそうだ。事実かどうか建撕記を購入し、読んでみるとそこには「妙法蓮華経庵」となっていた。「南無」をつけたのは本の筆者の間違いかなと考えた。しかし、延暦寺に行って見ると道元の伝記が絵図に示されていた。そこには最晩年の絵図に「南無・・」と妙法蓮華経は「・・」で省かれて表示されていた。
建撕記の原本には「南無妙法蓮華経」となっている可能性が高いと考える。
道元が読んでいた法華経神力品は「末法の法華経弘通を上行菩薩に付属すること」が説かれている。そして、道元の亡くなったのは、日蓮大聖人が立宗宣言された4月28日から、丁度4ヶ月後の8月28日だ。道元は日蓮大聖人より22歳年上であった。交流があったかどうかは知らないが、日蓮大聖人の噂を聞いていた可能性は高いと考えている。
この建撕記の話は何か因縁を感じる。
【禅宗に対する経典等】
以下は難しいが、禅に対する経文等を一応参考に上げておく。
法華経法師品
「法華経の乃至一句に於て受持し読誦せん」(法華経を一文でも読みなさい)
涅槃経の十三
「我爾の時に於て思惟し坐禅し、無量歳を経れども亦如来出世の大乗経の名有ることを聞かず」(長い間座禅をしたが、成仏の法がない)
摩訶止観(天台大師の著)の二
「意の止観とは、普賢観に云はく、専ら大乗を誦して三昧(座禅)に入らず」(法華経を唱えて、座禅はしない)
禅宗は、禅を主として、文字を基本立てない。しかし、それではやっていけず、「大梵天王問仏決疑経」なる偽経をつくり、文字を使って「文字(経典)を立てない」とする。
像法決疑経には、そのような時代が来て、仏法を破壊すると説かれる。
「諸の悪比丘或は禅を修すること有るも経論に依らず。自ら己見を逐ふて非を以て是と為し、是邪是正と分別すること能はず。遍く道俗に向かって是くの如き言を作さん。我能く是を知り我能く是を見ると。当に知るべし、此の人は速やかに我が法を滅せん」
すなわち、
「座禅ばかりして、お経を読みもせず、人々に私は悟ったという人が、仏法を破壊する」