恐らくほとんどの一般の方々は、ピカソの作品(特にキュビスム)の良さは、全くの理解不能なのではないでしょうか。
私は美大受験時代にピカソの画集を購入し、予備校では何十枚も絵を描いたり、美術史や絵画理論等を、それなりに勉強してきました。
拙い文章ですが、ピカソへの理解に資していただければ幸いです。
今の時代はカメラがあるので、現代美術においては、描写力はそれ程重視されないのです。
描写力という点では、どうやったってカメラには敵わないですからね。
カメラの技術が発明されたのは、ほぼ19世紀だそうですが、それまでカメラの役割を果たしていたのが、画家達です。
肖像画を描いたり、事件の記録として絵を描いたりしていました。
しかし、カメラが発明される事によって、画家達は立場を追われました。
それはそうですよね、先にも述べたように、描写力という点ではどうやったって、カメラには敵いませんから。
そのため、カメラでは出来ない事の追求、あるいは「写真」とは違う「絵画」とは何か、という問いが画家達の間に生まれ、絵画ならではの作品が生まれてくる事になった、という経緯があったのです。
マネ、モネ、ルノワール等の印象派、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等の後期印象派の画家達は、そういう流れから生まれてきた人達です。
彼らは日本でも人気がある人達です。
しかし、ピカソになると分からない。
ピカソでも、青の時代、バラ色の時代、キュビスム等と色々な時代の作品がありますが、特にキュビスムは、「分からない現代美術の象徴」とも言えるでしょう。
私も、美大を志望したばかりの頃は、全く分かりませんでした。
しかし、何枚も何枚も絵を描いている内に、「おやっ?」と思う瞬間があり、少しずつ理解できるようになりました。
その違いは何か。
それは、それまでの私は絵画を表面的にしか観ておらず、空間的に観ていなかった事です。
「絵画とは何か」、それは「仮の空間」であると、女性哲学者のスザンヌ・K・ランガー氏は語っています。
「絵画」とは「キャンバスと絵の具を組み合わせた物」ではありません。
それらは「素材」に過ぎません。
画家は、絵の具という素材を使って、「仮の空間」を作り出すのです。
絵画を鑑賞する際には、空間を感じていただきたいのです。
私達は、時間と空間の中に存在しています。
その中では、心地いいと感じる時もあれば、気分の悪い時もあるでしょう。
例えば、目の前に刃物を突き付けられたら、ほとんどの人は、緊張し不快感を覚えるでしょう。
それは、刃物が単に物質的に危ないからという理由だけでなく、刃物の輪郭線が先端に集中し、視線を集める事によって緊張感を生み出すからです。
これが、柔らかな丸い風船だったら、目の前にあってもそれ程緊張はしないでしょう。
そのように、物と物の間には適正な距離というものがあります。
別の例を挙げれば、好きな人が遠くにいると寂しく感じるでしょうし、近くにいると嬉しくなるでしょう。
反対に、嫌いな人が近くにいても不快ですし、むしろ遠くへ行って欲しいと思うのではないでしょうか。
人が感じる時間や空間には、快・不快が存在しているという事です。
絵画でも同じです。
仮の空間で描かれた物と物の間が、心地いいと感じられれば、それは恐らく、作品の構図が正解であるという事です。
ピカソはその事を、多視点から物を見る事によって成し遂げました。
それがキュビスムです。
キュビスムでは、人の顔が実物とは程遠い形で描かれています。
それは、人物というモチーフから出発して、「絵画として」、完成というゴールに行き着いているのです。
「モチーフ」の意味は「動機」であり、スタートです。
モチーフがゴールのような作品…、それは「写真のような絵画」でしょう。
同じモチーフから出発して、紆余曲折を経た結果、みんなゴールが一緒であった…。
創作の世界で、これ程恐ろしい事はありません。
ひるがえって言えば、ピカソは、キュビスムで多視点から物を見る事によって、美的快感を得られる空間を、「新たに創造」しているのです。
そこでは、モチーフにそっくりである必要など、全く無いのです。
「美的仮空間の新たな創造」、それが美術の役割なのです。
そう考えてみれば、ピカソの良さも少しは理解できるのではないでしょうか(もちろん、作品の質に良し悪しはありますが)。
ちなみに、画家は「線の画家」か「色の画家」に大別されるそうです。
形は線によって作られるので、キュビスムにより形に革命を起こしたピカソは、線の画家と言っていいでしょう。
反対に「色の画家」の代表と言えば、「野獣派」と呼ばれたマティスかも知れないですね。