大乗教の論に、アショカ王による結集(経典を集める事)の様子がないため、大乗経は結集以降作られた。
これも、大乗派と小乗派とは対立関係にあったという思い込みから起こっている考えだ。
すでにあるのになぜ対抗するように様子を示す必要があるのだろうか。
同じような事は、涅槃経に対してもある。
「竜樹菩薩の大智度論等に、涅槃経の引用がない。涅槃経は竜樹菩薩の後に造られた。」
この擬難に対しての答えは「竜樹菩薩にとっては、涅槃経の引用する必要がなかった」
これは、「涅槃経」と「般若経を依経とする大智度論」との違いを理解していない(大乗非仏説⑨)ため、竜樹菩薩が涅槃経に踏み込まなかった理由が分からない。
所詮学者は「智慧が足らない」また、「仏教を理解していない」
「学者でないおまえがなぜそんな事が言えるのか」と思う向きもあると思う。
「学者は知識は豊富だけど、頭はそう良くない」
「本質を知らずに文献証拠等ばかりあさっているため」
また、「縦系列の学者世界では異端だと就職ができない」「本が出せない」等の理由があるように思う。