ご訪問頂き誠にありがとうございます。

 

本日は以下のテキストの実践です。

月曜は週替りのマインドフルネス実践をお伝えしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

Week12 は「『待つ時間』を活かして使う」 です。

 

何かの列を待っているとき、人と待ち合わせするときなど待ち時間を使って、マインドフルネスや瞑想や祈りの練習に当てるということです。

 

最も簡単なものは「呼吸」です。2、3回深く呼吸をすると、待たさせれている不快感や、相手が遅れるかもしれないという懸念によって生じる緊張をほぐします。

 

待ち時間は、音を聴く練習をするにもいい機会です。その空間に流れる全ての音に集中します。

 

待たされることに不快さを感じていると気づいたら、自分にこう語りかけます。

 

「なんてありがたい。思いがけず、マインドフルネスを練習する時間ができた」

 

 

 

 ワークの狙い

 

 

「忙しくてマインドフルネスの練習ができない」
 
こう考えてしまいがちですが、この待ち時間など細かい時間を使おうとすれば、今この瞬間に集中する機会は一日の中であらゆるところにあることに気付くでしょう。
 
少しの空き時間でも携帯を取り出しては、ネットサーフィンやメールのチェック、ゲームをやったりなどしているのがその証拠です。
日々の暮らしの中で、少しの空き時間でも、これまで紹介してきたマインドフルネスの練習を都度やっていくと、トータルではかなり長時間取り組んだことになります。
 
一日のうち、「待たされる」ことは多いですが、いつもであれば「あー、まだなのか」とネガティブになりがちですが、マインドフルネス練習ができる時間だと認識すれば、却ってポジティブになれるでしょう。
 
 

 

 このワークの学び

 

 

練習を始める前は、待ち時間にイライラしていたかもしれません。

その後、待たせた相手に対してその怒りをぶつけることでしょう。

 

しかし、そこでネガティブな感情に心を支配されないようにしていると、習慣化していた不健全な心理パターンが消えていきます。

 
そもそも何故、人は待たされることにイライラするのか。
 
 
それは私たちの多くが、自分の価値を「生産性」ではかろうとするからです。
1日に仕事もせず、家事もせず、練習も勉強もせず終わったりすると、自分がダメな人間だと思ってしまうのです。
 
本来であれば、自分がここに存在しているだけで評価できるのにもかかわらずです。
 
こういった考え方をしていると、待たされているときに「この時間があったらもっと他のことができたのに!」と思ってしまいます。
忙しい中でも、ただ一時手を止めて、ただ静かにそこにいて、自分の周りに意識をむけること。
すると、自分が人から支えられている実感、親近感、幸福感が得られるでしょう。
 
これが人が生まれながらに持っている「生得権」です。
この練習は自分がここに「存在していること」を再認識できる機会となります。
 
 
 
ここまで読んで頂き誠にありがとうございました。
いつもご訪問下さり、いいねやフォロー頂けることに感謝致します。
 

 

現在学習中のテキスト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 
 
 ご訪問頂き誠にありがとうございます。

 

 

今週より、改めて小林正観さんの著書『ありがとうの神様』シリーズについて再度見ていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間にのみ備わっている本能

 

 

動物には以下の本能が備わっています。

 

■ 自己保存の本能

 体を維持する行動をとる本能

 

■ 種の保存の本能

 子孫を残す本能

 

 

ここまでが動物に属する「ヒト」もまた持っている本能です。

しかし、もう一つ「人間」にのみ与えられている本能があります。

 

それが

 

「喜ばれると嬉しいという本能」です。

 
ヒトという動物が人間となっているのはこの本能があるからだと言います。
「喜ばれると嬉しいという本能」は「ヒト」にだけ与えられているものではあるものの、「ヒト」として一人だけで利己的に生きている間は、この本能は目覚めません。
 
 
ヒトは、一人で生きていると「ヒト」
ヒトは、人の間で生きていると「人間」
 
 
他人と競い、自分が勝ち上がると嬉しいのが「ヒト」
仲間が喜んでくれると、自分も嬉しいのが「人間」
 
 
その日一日「誰かに喜ばれる」ことをしたならば、その人の喜びが、「自分にも喜びをもたらす」ということに気がつくでしょう。
 
 
人間は自分の幸せを追い求めていっても、最後に行き着く結論は同じだそうです。
すなわち、
 
■ 自分が喜ばれると、自分が幸せな気分による
 
■ 自分の存在が喜ばれると嬉しい
 
ということです。
 
「喜ばれると嬉しい」という本能に目覚め、それを認識しながら生きていくと、やがて「良き仲間」に囲まれて幸せになるということです。
 
 
 

 

  他者がいなければ喜ばれない

 

ここからは私見となります。
 
確かに他者がいなければ「誰かに喜ばれる」という現象は起こり得ないでしょう。
従って「一人で生きている」とこの本能は目覚めないというのは当然のことでしょう。
 

方向が間違ってしまった自信や、逆に人間不信となって、自分の殻に閉じこもったりして、「自分一人だけで生きていける」などと誤った考えを持ってしまうことがあるかもしれませんが、一つとして自分一人でできることはありません。


 

また、「他人と競い、自分が勝ち上がると嬉しい」という次元で考えるというのは、まさしく「独り勝ち」ということであり、「一人」ということでしょう。

 

目の前にあるもの一つ取っても、自分の力だけではそこに存在しないものです。

つまり、自分という存在そのものが他人にとって生かされています。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは何一つ自分でできない

 

自分で収入が得られるまでは、親に稼いでもらったお金で生きていくしかない。

 

自分で収入が得られるようになっても、それは他者から頂いたお金である。

 

こう考えていくと、どこまで行っても「独り」で生きていくことができないことがわかります。

精神的に「独り」と思っていても、少なくとも物理的には絶対に他者との関わりが外せません。

 

他者がいて自分がいるということがわかると、それに対して感謝の念が起こり、やがて他の誰かのために役に立ちたい、恩返ししたいと思うようになるでしょう。

 

それが「人と人との間で生きると」人間の「誰かに喜ばれると嬉しい」という本能なのでしょう。

 

 

 

ここまで読んで頂き誠にありがとうございました。

いつもいいねやフォロー頂けることに感謝致します。

 

 

 



 

 
 
ご訪問頂き誠にありがとうございます。

 

 

今週より、改めて小林正観さんの著書『ありがとうの神様』シリーズについて再度見ていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五戒を口にしないこと

 

 
小林正観さんがおっしゃっている「五戒」については、これまでも度々記事の中で紹介してきました。
 
五戒とは
 
「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の5つのことで、これらを口にしないようにしましょうということです。
 
斎藤一人さんも同じく「地獄言葉」と呼び、これらを口にしてはいけないと警告しています。
 
何があっても「五戒」を口にせず、言葉だけは優しく周囲の人を元気づけるようなものであれば、神様や宇宙が味方してくれるということです。
 
 
人間は「自分の発した言葉」によって、自分の人生が作られています。
周囲の環境や状況は全て、自分の言葉が作り出したものということです。
 
朝から晩まで「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と言い続けると、この言葉をまた言いたくなる現象や出来事に囲まれます。
 
正観さんは、これら7つの言葉を「祝福神」と呼んでいるそうです。
斎藤一人さんは「天国言葉」とおっしゃっていますね。
 
 
反対に、「五戒」を口にしていれば、「ツイていない」人生を送ることになります。
「ツイていない」と嘆いているとすれば、今日一日を振り返って、「自分がそうしたい」と思ったことをどれだけできたか思い出してみましょう。
 
 
ご飯を食べたいと思って、その通り食べられた。
 
電車に乗りたいと思って、その通り乗れた。
 
このテレビ番組が観たいと思って、その通り観れた。
 
あれが欲しいと思って、その通り買えた。
 
そろそろ寝たいと思って、その通り朝までぐっすり眠れた。
 
 
そういえば、私も今の仕事や職場を望んでその通り勤められているのだなと思い返しました。
 
存外、一日のうち、私たちは「思い通りに生活できている」のです。
 
 
 
正観さんは、夜中の2時にある人から電話でこう相談されたそうです。
 
「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わないようにしてきたが、4ヶ月経っても思い通りの人生を送れない」
 
正観さんはすかさずこう答えたそうです。
 
「そういうのを、不平不満というのではありませんか?」
 
 
「思い通りにならなかった」と言う人がいたとすれば、「思い通りにならない」と言い続けたとおりになっているということです。
神様や宇宙は良し悪し、主語を区別しないということをよく表しているでしょう。
まるでプログラミングのように、指示したとおりに動作するということですね。
 
 
 

 

 怒りには「毒素」が含まれている

 

正観さんは、なるべく「怒らないほうがいい」と提唱しています。
なぜならば、人間が怒りの感情とともに吐き出す呼気の中に「毒素」が含まれているというのです。
 
こういった実験がありました。
 
一升瓶に普通の精神状態で生きを吹き込み、ハエを入れる。
すると40分くらいで「窒息死」したそうです。
 
今度は、怒りの状態で息を吹き込む。
すると、瓶の中のハエはたった「3分ほど」で「毒死」したそうです。
 
怒りの状態で放つ呼気に含まれる毒素には、一種のタンパク質を溶かす働きがあるようです。
従って、使った自分の内臓もダメージを受けるそうです。
 
 
損得勘定でものを考えれば、五戒を口にすると具合が悪くなるのであれば、こんな損なことはないとわかるでしょう。
正しい生き方をしようとか、立派な人になろうとかではなく、単純に「損」なのです。
 
 
体調不良になると五戒を口にしたくなります。
「体調が悪いから愚痴をこぼしたくなる」と言いますが、実は逆の可能性があります。
つまり、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の感情が身体を蝕んでいるのです。
 
ある外科医が、患者の家庭環境を分析した結果、「怒鳴り合っている環境」で生活している人と、「穏やかな言葉が飛び交う家庭」で生活している人とでは、明らかに「前者の方が病気になる確率が高い」ということがわかったそうです。
 
 
 
さて、ここまで読んできて、自分自身を振り返ってみれば、今年2月まで、「五戒」を口にしてはいけないなどと微塵も知らなかった私は、感情の向くまま五戒を周囲に対して声高に叫んでいました。
 
その瞬間はわずかですが心が晴れた気がしたからです。
そうでもなければやっていられない、とそう思っていました。
しかし、実際は逆だったのです。
 
今まさにその「ツケ」を大いに払わされているわけです。
ようやく五戒の恐ろしさに気付けたものの、日々の地獄のような苦しみの中で、どうしても「痛い、辛い、もう勘弁してほしい」という言葉になって口をついてきます。
 
それが次の「痛く、辛い」状況を引き寄せている。
 
それもわかっています。しかし、どうにもならないこの苦しみ。如何ともし難い痛みの前に私の学習内容などどこかへ飛んでしまうのです。
 
本当に哀しいことですが、立ちはだかる現実に無力な自分がいます。
最近はそう思っても仕方のないことと受け入れ、弱い自分を許すことはできるようになりました。
 
あとは、「どんな状況であっても五戒を口にしない」ということです。
 
今できることは、少しの痛みであれば、「まぁいいか」と受け流し五戒を言わないこと。
少しでも「五戒を口にせざるを得ないような」耐え難い痛みの発動を抑えることが大事です。
 
「痛い、苦しい」と思うことが地獄の痛みを呼んでくる。
これを意識しながら、痛みを痛みとして認識しない。
 
ここでマインドフルネスの学習内容を適用していくということでしょう。
 
もはや精神修行の域に入ってきたように感じます。
 
知人がミャンマーの寺院で修行されたことがあるそうですが、「自分自身の痛みを俯瞰して、第三者的に見、身体の反応と感情を切り離す」という、まさに同じことが修行で行われていたそうです。
 
つまり、今の私はミャンマーで高僧になろうと修行されている卵の方々と同じ状況にあると言っても過言ではないのです。
日本の自宅にいながらにして高僧になるための精神修行と同じことを課せられている。
これはある意味で面白い状況ではあります。
 
ここを乗り越えた時、おそらく皆様にとって何かヒントとなるようなことを、自分なりの理論でお伝えできるのではないかと思っています。
 

 

ここまで読んで頂き誠にありがとうございました。

いつもいいねやフォロー頂けることに感謝致します。

 

 

 



 

 

ご訪問頂き誠にありがとうございます。

 

 

今週より、改めて小林正観さんの著書『ありがとうの神様』シリーズについて再度見ていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分と他人を「許す」ことができると、痛みがなくなるらしい

 

 

 

「自分は病気だからつらい」と思っている人は、「つらい」と言っていること自体が、病気を生んでいるかもしれません。

 

 

ここ最近本当に脚腰の痛みが酷く、地獄の苦しみで夜も一睡もできず、朝晩と座ることも立つこともまして横になることも、全ての動作が痛みを変え、場所を変えて襲ってくる状態です。

ひとつとして同じ姿勢を取り続けることができず、1分ごとに体勢を変えていきます。

しかし、痛みがなくなるわけではなく、ある箇所の痛みより他の箇所の痛みが激しくなることで相対的に痛みを紛らわすという状態なので、根本的に休まることはなく、本当に「つらい」状態です。

 

そんな状態ですので、正観さんのこの冒頭の言葉からして、私には衝撃的です。

「つらい」と思うから余計につらくなるのだ。というのは、マインドフルネスのところでも同じことを学びました。

それと全く同じことをここでも見ることになるというのは、真理が同じところにあることを想起させます。

 

 

神経痛や腰痛、通風、リュウマチなど神経が痛むときは、2つの条件が重なっているそうです。

 

■ 神経がピーンと張っていること

 

■ 神経をピーンと響かせる外的な状況

 気温や気圧の変化で発生する、いわゆる気象病や、他人から聞きたくないことを聞いてしまうなど、自分ではどうにもできない要因のことです。

 

外的要因を何とかすることはできませんが、張っている神経を緩ませることはできます。

神経を緩ませることができれば、外からの刺激は響かず、痛くなくなります。

 

「怒ると痛い」、「笑うと痛くない」という因果関係がわかれば、怒るより笑うようにする方がいいということがわかるでしょう。

 

 

 

 許すと緩ます

 

 

「許す」の語源は「緩ます」であり、神経を緩ませていない人は、人を「許せない」人であり、だから、痛いらしい。

 

何とも耳の痛い話ですが、緩ますことは、すなわち、「許す」ことです。

自分に対して厳しい人は、体が「あなたの厳しさには耐えられません」と悲鳴をあげて痛みが怒っているようです。

 

また、自分に厳しい人は、他人にも同じレベルで厳しい。

自分には厳しくて、他人には甘い人は少ないでしょう。

 

人に寛容になるためには、「自分を許し、自分に甘く、適当な人」になればいいそうです。

 

 

「いいかげん」な人という言葉もあります。「いいかげんで適当な人になる」ことが「良い加減」なのです。

 

 

自分で自分を許すことができたら、他人を許すことができる。

 

他人を許すことができたら、緩ますことができる。

 

緩ますことができたら、神経の痛みがなくなるらしい。

 

 

 

ということで、現在私の症状が酷くなっている要因としては

 

■ 痛みに対して「つらい」と感じてしまい、そこに集中してしまっている

 → この地獄のような痛みが来た時にいかにマインドフルネスを働かせることができるか。

   つまり、痛みを俯瞰して客観視し、痛みと感情を切り離して隔離するということです。

  

  毎日挑戦はしているのですが、精神力が追いつかずすぐに痛さに負けてしまって叫び出す始末。

  いっそ笑い飛ばせればいいのでしょうね……

 

■ 痛みが激しいので、理性を失い精神が安定しないことがある

 → 痛みで神経が張り詰めて過敏となっている。実際に右大腿への痛みの信号が強まるのを感じます。

   理性をどこまで保てるかというところが課題

 

■ まだまだ完璧主義の理想を追い求めている?

 → とっくに捨てたと思っている完璧主義の理想ですが、まだ残っているのかもしれません。

  つまりこの水準までできていたいのに、実際はそれにも及ばないレベルで留まってしまっていることへの苛立ちがあるのかもしれません。不要に自分に厳しい状況があるのかもしれません。

 

■ 家族、とりわけ子どもにもそのような厳しめのハードルを課している?

 → いけないことはいけないと強めに説教することが多いのは確かです。それは親の義務だと思っているからです。

  また、「勉強は毎日少しでも良いからやること」、「一日にやるべきをやる」を徹底して言い聞かせているので、これが厳しいということになるのだろうか?

  ただ、「やるべきをやれば」後は遊び呆けててもよいというルールにしているので、特段厳しいとは思わないですが、やらない時には厳しく言っているのかもしれません。

 

■ 自分にも他人にも一定の水準を求めてしまっていることが、痛みの要因となっている?

 「許すことは緩めること」これを念頭に置くことが大事

 

 

ということで、今回はテーマがまさに自分にとってタイムリーであったため、色々と反省点の多い記事となりました。

 

ちなみに、つい先日、悪化が著しい脚腰の症状に対して2方向からのアプローチを適用しました。

そのうちの一つは、とある方にご紹介頂いた理学療法のクリニックです。画期的な治療をされており、私の症状も7割型良くなっていく症例ではないかとの診断でした。しばらくはこちらの治療を行っていくのですが、3~6ヶ月と長いスパンで少しずつ痛みを減らしていくようなものになりそうです。

 

本当にやれることは全てやっている感じですね。どれが効くかわかりませんので、もう試すしかないでしょう。

どれが効いたか、どうなっていったかなどは、症状が落ち着いてきたらまとめてみたいと思います。

 

 

ここまで読んで頂き誠にありがとうございました。

いつもいいねやフォロー頂けることに感謝致します。

 

 

 



 

ご訪問頂き誠にありがとうございます。

 

今週より、改めて小林正観さんの著書『ありがとうの神様』シリーズについて再度見ていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すべてが、あなたにちょうどいい

 

 

私たちはとかく現在置かれている世界、環境、社会、職場や仕事、家庭や人間関係について、不平不満や文句、愚痴を言ってしまいがちです。
 
正観さんは、次のお釈迦さまの言葉を紹介しています。

 

 

すべてが、あなたにちょうどいい


今のあなたに、今の夫がちょうどいい

今のあなたに、今の妻がちょうどいい

今のあなたに、今の親がちょうどいい

今のあなたに、今の子どもがちょうどいい

今のあなたに、今の兄弟がちょうどいい

今のあなたに、今の友人がちょうどいい

今のあなたに、今の仕事がちょうどいい


死ぬ日も、あなたにちょうどいい

すべてが、あなたにちょうどいい

 

 

 

グサリと心に響いてきます。

 

正観さんのところには、多くの「現状に対する不満」の相談が来ていたようです。

例えば、仕事であれば、「会社や仕事、上司、取引先」の悪口や愚痴などです。

すると、正観さんはこのように答えるそうです。

 


 

 

「あなたの言っていることは、きっと間違いではないのでしょう。

 

ですが、あなたはその会社からお給料をもらい、その集団の中で生かされているわけです。

 

自分の人生をなり立たせる会社、上司、取引先に対して平気で悪口や愚痴を言えるあなたは、どうしようもない会社、上司、取引先と同じレベルの『どうしようもない社員』なのではないでしょうか?」

 

 

 

会社や環境が批判されても当然の状況であったとしても、それを批判していれば自分も同じレベルだということです。

家庭や配偶者、子どもや親の愚痴を言っているのであれば、その人もまた、そのような家庭や配偶者、子、親を持つにふさわしいということになるそうです。

 

逆に、人の悪口を言わない人には「悪口を言わない人」にちょうどいい「悪口を言わない仲間」が集まってきます。

「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と言い続けていれば、そのようなことを口にしている仲間が集まるというのです。

 

 

何とも耳の痛い話ではあります。しかし、現実によく言われることでもありますね。

現在の職場に不満を持ったまま転職したとしても、転職した先でも同じようなことになる。

だからこそ、後腐れなく、円満に退社すべきである。と言われます。

 

パートナーに不満を持った状態で「もっと良い人が現れる」、「運命の人は他にいる」などとやっていれば、やはり次も似たような不満を持つような相手が現れてきてしまうでしょう。

 

引き寄せの法則とまさにリンクするところですが、不足や不満にとらわれていれば、不足や不満が湧き上がるような状況が現実化するということです。

 

 

すべてが、あなたにちょうどいい

 

 

本当にそうだなと思うと同時に、この絶対的な真理にたじろいでしまう自分もいます。

「ちょうどいい状態」を引き上げていくには、現状に感謝し、喜ぶことが大事だということですね。

 

どうしてもそんな風に思えない状況だったとしても、正観さんが仰るように五戒「愚痴・不平不満・泣き言・文句・悪口」を口にしないようにして、良い言葉を使うことで状況を好転させることができるでしょう。

斎藤一人さんも「天国言葉」を話しましょう。「地獄言葉」は絶対に口にしてはいけないと仰っています。

 

 

どん底であればあるほど、心と一致しなくても言葉から変え、悪口を封印すれば心が変わっていくことでしょう。

私も考え方が大きく変わった気がしますが、入り口はまずこの「言葉」でした。

やがて悪い言葉を口にするような心を、天国言葉で抑えることができるようになり、考え方も変わってきます。

 

批判したくなっときでも、「すべてが、あなたにちょうどいい」と思い出して、そのレベルとちょうどいいようにしないと意識することが大事ですね。

 

 

ここまで読んで頂き誠にありがとうございました。

いつもいいねやフォロー頂けることに感謝致します。