今となっては「ナツメロ」ですけど
「北国の春」という歌がありますよね
1977年4月に千昌夫のシングルレコードとして発売され
大ヒットしました
さてさて
大ヒットした歌を分析してみると
成功の理由が見えてくるものです
まずはリズムから
この歌は最初の半拍が「お休み」です
実は日本人のリズム感って
最初の拍が抜ける旋律を好む傾向がとても強いのです
謳い始めのところで
これから始まる旋律を予想して「んっ」と力を入れる
その直後に声を出す
音楽学者なんかには
農作業の動作に関係しているという説を唱える人もいました
例えば鋤で耕す時なんかに
「んっ」と力を入れてから地面に振り降ろす
まあちょいと無理があるかもしれませんね
日本以外にも農耕民族はいっぱいあるわけで
そういう民族がこの
「冒頭の半拍が抜けるリズム」を好んでいるとは限りませんから
ともあれ
この「北国の春」は日本人が慣れ親しんだリズムのパターンで
始まっているわけです(譜例1)
ついでに言えば西洋、特にドイツでは
最初の拍の直前にメロディーが始まる旋律が多いです
ドイツ語では「アウフタクト」と言うのですが
「アウフ」は「上へ」、「タクト」は「指揮棒」です
指揮棒は拍のところで振り下ろされますから
その直前の指揮棒が持ち上がったところで旋律が始まる
ということです(譜例2)
もちろんドイツの旋律は必ずアウフタクトで始まるのではありません
かの有名なベートーベンの第5交響曲(運命)の第1楽章
あの有名な「ジャジャジャジャーン」という部分は
日本人が好む
最初の拍の直後に音が鳴りだします(譜例3)
いかん
例によって話が長い
「北国の春」の大ヒットの理由についてもうひとつ
この曲って素人でも歌いやすいのですよ
歌い慣れない人がやりがちなミスの一つが
自分の声域をよく把握していないために
歌の途中で高い音が出てきた際に声を出せなくなってしまうことです
ところがこの「北国の春」の楽譜を見ると
最初に出て来る「しらかば~」の部分が一番高い音です
後の部分にも同じ高さの音が出てきますけど
「しらかば~」の部分の高さの声が出せれば
最後まで歌いきれるわけです
昔々の歌謡曲って
「プロでなきゃとてもとても歌えない」
なんて曲があって
そんな曲の華麗は節回しに聴く人が酔ったりもしたのですけど
カラオケの登場以降は
「素人でも歌いやすい」も
その歌の人気を後押しする大きな要素になりました
と思ってカラオケ史を調べてみたら
1976年に第一興商とかクラリオンが8トラックカラオケのセットを販売して
(当時はまだ、通信カラオケがありませんでした)
1977年になると「社交の場にカラオケが急速普及」したそうです
時系列からすれば
「北国の春」はもしかしたら
カラオケで歌われることを意識して作曲され
それが大成功した初めての事例かもしれません
さてさて
「北国の春」は中国でも大ヒット
中国では折しも
「北国の春」が発表した前年の1976年に文化大革命が事実上の終了を迎え
翌年の1977年に終結宣言がありました
文革時代は外国の文化
特に西側の文化が全面否定されていて
日本の歌謡曲を聴いたり歌ったりするなんて
と~んでもないことでした
そんなことをしたら
下手すれば「日本のスパイ」と疑われて
命の危険すらあった時期でした
さてさて
1980年代になると「北国の春」は中国語訳されて
中国でも盛んに歌われるようになりました
曲名は「北国之春(ベイグオ・ヂー・チュン)」と
原題とほぼ同じです
さてさて
中国語歌曲に日本語の歌詞をつけたり
日本語歌曲に中国語の歌詞をつける場合には
大きな問題が生じます
同じ内容を表現する場合に
中国語の方が音節数がずっと少なくて済みます
したがって
中国語歌曲に日本語の歌詞をつける場合
そのまま訳したのでは音符の数が足りなくなります
原文の内容はどうしてもカットせねばならない
逆に
日本語歌曲に中国語の歌詞をつけようとしたら
内容を追加しないと音符が余ってしまいます
でもって「北国の春」の日中両語の歌詞を比較すると
妙な部分があることに気付きます
まず該当部分の日本語歌詞
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季節が都会では わからないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
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次は同じ部分の中国語歌詞です
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城里不知季节变换,不知季节已变换。
妈妈犹在寄来包裹,送来寒衣御严冬。
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この部分が
おかしいのですね
「城里不知季节变换」は「都会では季節が変わったことが分からない」
ということです
繰り返しているのは中国語にすると音符が余ってしまうから
このことには問題ありません
決定的におかしくなるのは
次の
「妈妈犹在寄来包裹,送来寒衣御严冬」
の部分です
日本語訳すると
「お母さんはまだ郵送してくるよ、厳寒をしのぐための冬の衣服を」
となります
この部分の直前に
「北国的春天已来临(北国の春がすでに来た)」
とありますから
この歌詞を発した人は
北国に春が来たことをすでに察しています
それでもって次の部分の
「城里不知季节变换(都会では季節が変わったことが分からない)」
には主語がありません
でも日本語歌詞の「季節が都会では わからないだろと」
では
「分からないだろ」と言っているのだから
明らかに母のセリフです
ところが中国語では
「都会では季節が変わったことが分からない」
に続けて
「まだ冬物の衣服を送って来る」
としてるので
内容としては
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私は農村にいる
都会にいる母は季節の移り変わりが分からない
だから冬物の衣服を送って来る」
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ということになります
これは大チョンボですよね
ついでに言えば日本語の歌詞の
「届いたおふくろの 小さな包み」
の部分では何を送って来たかが書かれていないのですけど
日本人が想像するのはおそらく
農村で採れたばかりの野菜とか果物ですよね
芽を出した山菜かもしれない
中国語では音符が余ってしまうので
具体的に何を送ったかを追加するのが
音符を埋める手っ取り早い方法なのですが
「季節が都会では わからないだろと」の
「だろ」の部分が理解できなかったために
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母が都会にいて自分は田舎にいる
都会から田舎に届けるのだから“工業製品”のはず
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と
勘違いがどんどん拡大してしまったようです