台湾における紹興酒の歴史 戦前の日本酒製造が国民党時代に切り替わる | 如月隼人のブログ

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「紹興酒」とは本来、浙江省紹興で醸造される酒のことだ。しかし台湾でも「紹興酒」は生産されている。台湾で紹興酒が作られるようになったいきさつを調べたところ、台湾で紹興酒を生産する代表的会社である「埔里酒廠(TTL、写真)」のウェブサイトに、台湾紹興酒の歴史についてのかなり詳しい記述があることが分かった、以下は同記述のうち、蒋介石総統の専用酒の製造を紹介した部分までの日本語訳だ。なお原文には記述上の不備と思われる部分があったので、適宜修正した

 

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台湾紹興酒の歴史

■日本統治時代に「清酒」の製造が始まった

清朝と日本の間に発生した「甲午戦争(日清戦争)」の結果として結ばれた馬関条約(下関条約)にり、台湾本島と澎湖島およびその付属島嶼は日本に割譲された。台湾地区は日本の植民地支配期に入り、台湾と日本の絶え間ない往来も始まった。

1917年(日大正6年)には埔里地区(現在の南投県埔里鎮、台湾南部にある)で、酒造産業が本格的に始まった。埔里地区は水質や気候と環境が酒づくりに適していたので、様々な準備を経て埔里初の民間酒造会社の埔里制酒株式会社が設立された。同社は最初期から、市場経済に組み込まれた生産販売を行った。


設立初期の主力商品は日本の清酒だった。埔里地区ではもち米や蓬莱米(日本の統治時代に開発に成功した米の品種)、その他の農産物が生産されていたので、台湾中部市場の需要を受け、台湾でそれまで飲まれていたもち米酒や濁り酒、太白酒などの台湾酒も生産した。同社の存在により酒造産業と農作物が緊密に結びついた。

■台湾に酒類など日本式の専売制が導入

日本政府は1922年(大正11年)、台湾地区におけるたばこ、酒、クスノキと塩業の専売制度を実施し、埔里制酒株式会社も台湾総督府専売局に買収された。この時に台湾の酒造産業は正式に専売期に入り、それ以外の酒造は禁止されたので、台湾の民間の酒造技術は過去のものになった。埔里製酒株式会社が生産する酒類は、会社が日本政府に買収された時点ですでに市場で好評であり、それに政府の裏書きが追加されたことで、会社の名声と製品はますます勢いづいた。台湾総督府はさらに埔里製酒株式会社を指定して、日本の天皇に献上する「御用酒」として、「万寿酒」という名の清酒を造らせた。


■工場は国民政府が接収したが紹興酒製造は困難

日本が1939-1945年の太平洋戦争に敗れると、台湾本島、澎湖およびその付属島嶼は1945年10月25日までに中華民国の領域に復帰した。しかし国民政府は酒造業における販売制度では日本による体制を踏襲し、台湾のすべての酒造会社を接収し、民間による密造酒は禁止した。当時の埔里酒造所は清酒、もち米酒、濁り酒、太白酒の醸造を主軸にしていた。

埔里酒造所が紹興酒を生産するきっかけは、国共内戦の結果として中華民国政府が1949年に台湾に撤退してきたことだった。

埔里酒造は1949年に紹興酒の研究開発を開始した。紹興酒製造には当時の台湾最高品質のもち米、蓬莱米と小麦を使用した。また、埔里の清純な愛蘭甘泉水と現地の良好な酒の保存環境も助けとなった。しかし、当時紹興酒の醸造技術は熟練しておらず、それまでの清酒、濁り酒、どぶろく、太白酒の製造技術を生かして少量の紹興酒を生産できただけだった。

■蒋介石総統の「故郷の酒」を製造

台湾初の紹興酒は、1953年に正式に発売された。このことは台湾の酒類消費市場にとって極めて大きな意義を持っていた。まず紹興酒は当時の台湾で数少ない高級酒類製品の一つだった。さらに、当時の権力者である蒋介石総統の故郷の味だったからだ。そのため、当時の台湾で紹興酒が市場に出回ることは国民党・政府・軍、あるいは一般庶民にとって、新しい体験であり、紹興酒は権力者の象徴だった。

■浙江省の島が陥落、紹興酒技術者がやってきた

1955年には浙江省の大陳島が陥落し、国民党に従って撤退した「大陳義胞」が台湾にやってきた。一部の人は紹興酒の醸造に対して一定の理解と専門の技術があった。そのような人は埔里酒造に配置されて紹興酒生産に参加することいなった。これらの大陳義胞の参加により、台湾の紹興酒の醸造技術と手法は日増しに成熟して、紹興酒の風味を更に向上させた。紹興酒への需要が増加したために、埔里酒造工場は1957年に、清酒およびもち米酒、濁り酒や太白酒などの酒類生産を打ち切り、紹興酒専門の酒造場になった。

台湾紹興酒の口当たりをさらにまろやかで芳醇にしてレベルを向上させるために、埔里酒は1965年、5年以上熟成した紹興原酒を蔵出ししてから調酒師が調合し、利き酒師の試飲テストに合格した酒を陳年紹興酒として発売した。この酒は当時の台湾で、結婚披露宴のための主力酒類になった。

■蒋介石総統用の特別酒、作った人が毒見役

1961年10月初頭、埔里酒造工の工場、ゲートの内外、敷地内、包装作業場は極めて厳重に管理された。中山服に身を包み、角刈りにして、光沢ある革靴を履いた見慣れぬ100人がやってきた。彼らからは殺気を感じたほどだった。一目見て、総統府の特殊工作員と分かった。工場に出勤した人たちは全員が、全身の身体検査を要求された。包装作業場、品質試験室の従業員は、特に厳しく検査された。この日は「介寿酒」の製造日に定められていた。

『介寿酒』は当時の蒋介石総統の長寿を祝すための特別専用酒だった。埔里酒造所の紹興酒は発売以来、その品質と味が当時の党・政・軍高官に愛され、さらに社会のあらゆる階層の人々にとって祝宴の酒として唯一の選択肢だった。したがって、当時の蒋介石総統にも爱されていた。毎年10月31日の蒋介石総統誕生日の前の10月初めごろには、多くの総統府特別工作員が埔里酒造工場に駐在して、「介寿酒」の各生産工程すべてに対して厳格な監視とチェックを行った。従業員は勝手に生産ラインを離れることを許されなかった。

「介寿酒」の生産が完了した後、これらの特別工作員は埔里酒造工場区で祝宴を開き、埔里酒造工場のすべての従業員を招待して一緒に祝賀した。従業員は自ら生産したばかりの「介寿酒」を飲んだ。この祝宴には、じつはある意図があった。先に従業員に「介寿酒」を飲ませて、酒に異状がないかチェックしたのだった。翌日になっても従業員に何の異常もなければ、この「介寿酒」は憲兵や特別工作員が誘導して、総統府あるいは日月潭の涵碧楼に運ばれて祝宴に用いられた。涵碧楼とは当時の蒋介石総統の別荘だ。「介寿酒」の生産作業は民国1975年に蒋介石総統が逝去したことで終止符を打った。