【いつものボヤき】 今の日本人が“知性の怠慢”に陥っている一つの例 | 如月隼人のブログ

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いつものボヤきです。ある歴史書を読んで、「全球化、すなわちグローバリゼーション」という記述があった。歴史観について説いた部分だ。「むむむむむ」と考えてしまった。

 

日本語では「グローバリゼーション」、「グローバル化」などと言われている。中国では<全球化>が普通だ。この歴史書の著者は、「全球化」だけではピンとこない読者がいると考えて、「すなわち……」の部分を追加したのではなかろうか。

 

今の日本語には、外国語の音を借りただけの「カタカナ語」が異常に多い。敢えて実名は伏すが、K池都知事が以前にカタカナ語の多用の理由を聞かれて「既存の日本語ではイメージをきちんと出すことができない」と答えたそうだ。

 

日々激しく変転する都政に対応するにあたって、新たな概念も次から次へやってくるのだろうから、「使える言葉」の選び方に苦慮していることについては、その通りだろう。ただなあ。「既存の日本語ではイメージをきちんと出すことができない」という発想は、どうなのだろう。

 

私が強くこう考えているのは、普段から中国語に接しているからだろう。中国語では、外来の概念を中国語に置き換える作業をずっと続けている。もちろん、新たに作り出した中国語表現が必ず定着するとは限らず、他の表現に置き換わる場合もある。そのことに伴い、多少の混乱が生じることもある。しかし、しばらく時間が経過すれば、中国語話者として皆が納得できる表現が確立される。

 

私が「これは上質な知の作業」と感心しているのは、中国語としての表現を確立する過程で、「外来の新事物あるいは新概念」の本質は何かと問いかける作業が行われることだ。「より本質的な表現であり、かつ母語としての違和感がより少ない表現」を模索するわけだ。

 

例えば上記の「グローバリゼーション」や「グローバル化」でも、英語を多少知っている人ならば、最初に“globe”(=球、球体)という語があり、この言葉に定冠詞の“the”をつけることで、形状が球体である地球を指すようになり、形容詞や動詞などの派生語がたくさん登場して、その結果として“globalization”という言葉が登場したとの知識はあるだろう。

 

ただ、日本語でカナ語である「グローバリゼーション」にしてしまえば、言葉を単なる「音符」として認識しがちになるのではなかろうか。

 

「全球化」という言葉ならば、漢字の「球」が否応なしに目に飛び込む。宇宙に浮かぶ「球」である地球の姿も思い浮かべやすい。すると、「グローバリゼーション=全球化」とは、国と国の仕切りが低くなるだけでなく、有限な世界である地球を舞台にした現象であることをより強く想起できるのではなかろうか。

 

ここまで書いて、ふと、思いついた。「地球」という語だ。詳しくは知らないが、おそらくは幕末ごろに登場した語だろう。少なくとも「地球とは宇宙に浮かぶ球体だ」という認識が西洋からもたらされたのちに使われるようになった日本語であるはずだ。「日本人による造語」とまでは断言できない。西洋の概念を漢字化した当時の言葉には、日本人がまず日本語化して、中国人がその後を採用した場合が多いのだが、逆の場合もあるからだ。

 

いずれにしろ、日本語は「地球」という語が追加された。「地球」という語を使えば、「地球とは宇宙に浮かぶ球」という光景を容易に連想することができる。日本人は「地球」という語を使う限り、意識しているか意識していないかは別として、地球の形状までを認識するようになった。

 

仮に、当時の日本人が「地球」という語を取り入れずに、たとえば英語由来の「アース」とか「ジアース」という語を使うようになったとしよう。日本人が地球のありかたについて、そこまで具体的な認識を持つようになれたかどうか。はなはだ疑問に思う。(編集担当:如月隼人)