あれから10年…中国で5.12四川大地震の報道が増える | 如月隼人のブログ

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中国では2008年5月12日に発生した四川大地震に関連する報道が増えている。記事の内容は、被災地や被災者の今、当時の救援活動などだ。

地震発生は2008年5月12日午後2時28分4秒(日本時間同日午後3時28分4秒)だった。中国人にとって忘れられない時刻だ。しかし、悲劇の時刻としてだけではなく、その後の復興を誇る時刻ともなった。

北京メディアの新京報は10日、高校校舎が倒壊してコンクリートのかたまりに両足をはさまれ、22時間後に救出した鄭海洋さんを紹介した。鄭さんは当時、高校2年生だった。現在は27歳。両足のほぼ付け根からの切断を余儀なくされ、その後は車椅子での生活となった。

鄭さんは27日午後、建て直された母校、北川中学(日本でが中学校と高校を合わせた学校に相当)を再訪した。校庭にはサッカーを楽しむ後輩の姿があった。鄭さんは言った。「なんてこった。新しいコートなのに、ボクはサッカーができないぞ」――。鄭さんは笑っていた。開口一番の“ギャグ”だった。

北川中学は校舎の倒壊で、生徒や教師781人が犠牲になった。鄭さんのいたクラスでは生徒69人のうち生き残ったのは16人だけだった。

鄭さんは、「私はかつて、17歳で北川中学の廃墟の下で命を失ってしまっていたはず、と思っていた。でも今は車椅子の生活で、以前には想像もできなかった方式で、世界を受け取っている」と記したことがある。2017年3月には、4人の仲間と50万元(約862万円)を出資して、身体障害者の健康回復や、地域コミュニティーや医療機関、医師との連絡、オンラインでの健康診断などが行えるアプリを制作・普及させる事業を立ち上げたという。

中国新聞社は10日、地震で壊滅的な被害を受けた映秀鎮の現在を紹介した。新たに建設された映秀新鎮では、住宅も公共施設も耐震性が十分に考慮されている。また、廃墟に安全対策を施した上で、震災記念施設としたので、観光業も盛んになった。地元での就職も容易になり、地元は活気にあふれるようになったという。

中央電視台は10日、地震により外部との交通が遮断された地域に降下して支援した、空軍空挺部隊の15人の今を紹介した。当時は降下地点の気象資料もなく、降下目標もなく、誘導もなく「決死の降下」だったという。しかし、救援物資を届け支援活動をすることは絶対に必要と判断された。

機体への結氷で、1回目は失敗。それでも2回目の飛行で降下を決行した。現地の標高は4000メートル程度もあり、標高5000メートルまで降下したところ落下傘を開かねばならない。通常は落下傘が数百メートルで開くので、勝手が違う。また、通常使いなれているタイプとは異なる落下傘を用いねばならなかった。
 
周囲は雲に覆われており、見通しも聞かない。山間部なので気流も複雑だ。それでも15人は降下した。周囲には高い山の崖が見えた。下には川もあり森林もあった。高圧電線が縦横に張り巡らされているのも見えた。そして、倒壊した建物もあった。

隊員の1人は降下しながら「降りる場所が悪かったら、私の小さな命は失われる」と思っていた。しかし同時に、「危険をくぐりぬけて自分が到着することが、苦しんでいる人々を勇気づけることになる」とも思っていたという。地上に降りたとたんに、多くの人が「軍が来たぞ!」と歓声を上げて駆け寄ってきたという。

四川在線によると、四川省では地震とその被害、救済活動をまとめた書籍の「〓川特大地震四川抗震救災志」が出版され、10日には出版記念座談会が行われた。四川大地震についての最も詳細かつ質の高い記録で、自然災害への対策の参考になるだけでなく、後の世代のために自然災害についての詳細な記録を残すことを意識した1冊という。(編集担当:如月隼人)


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