十三仏の四番目の仏さまは普賢菩薩です。あまり一般の人にはなじみのない仏さまかもしれません。しかし、釈迦如来像の両脇に前回の文殊菩薩と、この普賢菩薩の三体をセットにして釈迦三尊像として一緒に見ている人も少なくないと思います。文殊菩薩が大乘仏教の早い時代から出現したのに対し、この普賢菩薩は法華経や華厳経の大乘仏教の後半になって著された経典と共に生まれた菩薩と思われます。
前回の文殊菩薩像の多くは獅子の上に乗っていましたが、普賢菩薩は象の上に乗った仏像が多いです。文殊菩薩が獅子の上に乗っているのは、獅子に例えられるくらい強い知恵を持っているという意味です。象に例えられるのはちょっとやそっとでは動かない知恵や、修行者として堅固な菩提心を表現しています。象は一頭の場合もありますが、三頭や四頭の場合も有ります。三頭の象の上に乗っている場合は、一頭が二本ないし四本ずつの牙を持っていて、菩薩としての六つの大切な修行者の姿である六波羅蜜を表していると言われます。
布施(ふせ)(惜しむこと無く)
持戒(じかい)(戒めを守り)
忍辱(にんにく)(修行の苦しさに耐え)
精進(しょうじん)(不断の努力をして)
禅定(ぜんじよう)(冷静に自分を見つめ)
智慧(ちえ)(曇りのない明らかな智慧をもつ)
この六つの修行者の姿を現しています。この六つを六波羅蜜(ろくはらみつ)と呼びます。
皆さんに馴染み深いのは、布施と精進ですかね。布施というと、檀信徒の皆さんから僧侶に払うお金と思われがちですが、何事にも惜しむこと無く施しをしなさいと言うのが本義です。
普賢菩薩と普賢延命菩薩
六波羅蜜行をする普賢菩薩は衆生のために修行をする菩薩の姿ですが、元は華厳経というお経に説かれています。そこでは
虚空世界が尽き、衆生および業と煩悩の一切が尽きるようなことはないゆえに、我が願いは常に尽きることがない
と普賢菩薩が説いたと記されています。この言葉は弘法大師空海が高野山で万燈供養を行った際に書いた願文の
虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば我が願いも尽きん
という空海の菩提心の尽きないことを表した名文句としても引用されています。
また普賢菩薩が衆生の長寿延命を願うときは、普賢延命菩薩と呼ばれます。長仙寺の多賀壽命尊の御祈祷では昔から普賢延命菩薩の真言
オンバザラユセイソワカ
という真言を般若心経の直後に必ず唱えます。この真言は「仏説一切金剛壽命陀羅尼経」というお経に載っています。普賢菩薩の一般的な真言「オンサンマヤサトバン」とは使い分けます。この普賢延命菩薩の御利益のせいなのか、神さまと同居する長仙寺の壽命殿の「おたがさま」を地元の人たちは
じゅみょうがみさま
と呼んでいます。このように菩提心の堅固な姿、長寿延命の御利益を願う姿というように、普賢菩薩は二つの顔を持つ仏さまなのです。
修行者の普賢菩薩と生涯修行者だった空海さん
しかし、普賢菩薩の基本はマジメな修行者です。経典の中では菩提心を擬人化した金剛薩埵の同体として普賢菩薩が登場することも多いです。また仏像では、左手に大日如来の知恵の働きを象徴する五鈷金剛杵を持ち、右手には人々の菩提心を呼び覚ますための五鈷金剛鈴を持っています。五鈷杵や金剛鈴など、いかにも大乘仏教後期の密教の仏さまであることがわかります。そして頭には宝冠を乗せています。これは密教の金剛界大日如来の姿そのものです。
ただ、一説にはそのお顔は童顔だとも説かれていて、いかにも修行者としての仏さまであることがわかります。
そんな修行者としての普賢菩薩の姿を弘法大師空海は最晩年にイメージしていたのです。前述の言葉は、空海さんが亡くなる承和二年(835年)三月二十一日の三年前の天長九年(832年)に遺した言葉です。この頃になると、空海さんは宮中からの呼び出しがあっても拒み続けて高野山に籠もりがちになりました。
六十歳近くなって、高野山と京都を歩いて往復するというのは、体力的にも厳しかったと思います。空海さんは、その二年前に自身の教えの集大成とも言える「十住心論」を著しました。その翌年、空海は重い病にかかり、夢に自身が入る棺桶が出てくるほどでした。そして、僧侶としての位階である大僧都の位を捨てて、高野山に籠もろうとしていました。そんな境遇に出た言葉が前述の
虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば我が願いも尽きん
だったのです。あくまでも、衆生の安寧を願う修行者であることを、華厳経の普賢菩薩の姿になぞらえたのです。偉大な真言宗の祖師ではありますが、一修行者として山にいたいと願う姿に私自身とても親近感を感じます。