文殊菩薩《十三仏の仏さま》 | 愚僧日記3

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知外坊真教

 十三仏の三番目の仏さまは文殊菩薩です。三人寄れば文殊の知恵なんて諺もあるくらい知恵の仏さまとして有名です。


 お釈迦さまは、今から二千五百年前の人ですが、文殊菩薩が登場する大乘仏教は今から二千年以後に現れてくる仏教です。それまでの仏教は偶像崇拝をしませんでした。あくまでお釈迦さまの説いた教えを深めてきました。しかし、お釈迦さまの教えをもっと多くの人に広めるために、お釈迦さまの教えを説くための登場人物として様々な仏さまが登場するようになりました。文殊菩薩もそんな仏さまです。
 

維摩経に登場する文殊菩薩
 

 文殊菩薩の登場する経典として有名なのは、維摩経(ゆいまきょう)というお経です。このお経はお釈迦さまが亡くなって五百年くらいして作られた経典です。実話ではありません。この頃になると、仏教は出家者中心の仏教から、普通に社会生活を送る大衆のためにも説かれ始めます。
 

 主人公は維摩居士(ゆいまこじ)という頭脳明晰な人でした。彼が病気になったので、お釈迦さまが弟子たちに見舞いに行ってくれと頼みます。しかし、お釈迦さまの弟子たちは、ことごとく維摩居士に論破されてしまいます。そこで登場したのが文殊菩薩です。
 

空の実践
 

 維摩経の主題は、「空」です。全ての存在は相互依存していて絶対的は存在がない、常に変化している。そして「空」という考え方をする上で大切な事は、物事を二項対立の中で捉えないという大乘仏教の基本的な教えです。たとえば体と心、善と悪、自分と他者、というように、物事を対立した存在として比較して価値づけることなく、差別しないで見るということです。
 

 私たちは何かを考えるとき、常に何かと何かを比較して考えてしまいます。どちらが良いか悪いか。そして言葉も物事を言語化するために、何かと何かを区別しなければ成り立ちません。行為をする人と、その行為の影響を受ける人という区別と執着が、問題を引き起こします。このことを維摩居士が文殊菩薩に質問しました。すると文殊菩薩は
 

私の考えでは、 すべての存在や現象において、 言葉も思考も認識も問いも答えも、全てから離れることが大切です
 

と答えました。誰かが誰かに何か言葉を発すれば、その言葉は誰かの立場で語られて、軋轢を生んでしまいます。文殊菩薩は、「全てから離れることが大切」と答えます。次に文殊菩薩が維摩居士に「あなたはどう考えていますか」と質問しました。すると維摩居士は沈黙してしまいました。すると文殊菩薩は
 

  すばらしい、一文字も一言もないとは!これこそすべての差別から離れている
 

と感嘆しました。文殊菩薩は維摩居士に質問され、それを返し、逆に維摩居士に質問して、維摩居士から沈黙を引き出しました。今までお釈迦さまの弟子たちが、ことごとく維摩居士にやりこめられて一言も返せなかったのですが、今回は文殊菩薩の質問に維摩居士は一言も返せなくなったというわけです。そしてこの問答によって文殊菩薩は聴衆に空の真理の深みも伝えていたのです。維摩居士と文殊菩薩の議論は、最後には言葉では言い表せない深遠な「空」の本質に到達していたのです。
 

 ところで、最近よく耳にする多様性(diversity)というのも、この二項対立から離れた物事の捉え方と言えます。なにか一つの価値観に固執せずに、様々な価値観でとらえて、それぞれ生かすように努力しようという呼びかけです。国連は持続可能な十七の開発目標(SDGs)を掲げています。このSDGsは、最後に'sという複数形になっています。複数形になっているのは、多様性を重んじているからに他なりません。十七の目標のうち、同時に複数項目実現されることが望ましいという仕掛けは、ひとつの立場に固執しないようにする「空」の実践とも言えると私は思います。
 

ひとつのことに固執してはダメ
 

 ところで、この文章を書いているのは八月十日。令和五年のお盆は、台風7号に翻弄されそうです。予定の変更をどうするか一度は変更案を決めました。ところが、台風の速度が思ったよりも遅く、再度行事の変更を考える必要があります。一度決めた変更案に固執すると判断を誤ります。常に最新の科学的な根拠に基づいて判断しなければなりません。自然は常に変化し、周囲の状況も常に変化し続けることを、私たちは謙虚に受け入れなくてはなりません。
 

 また変化というと、現代は核家族化が進み、ひとつの世帯が同姓の親族だけで承継できないことが多くなっています。家族の形も常に変化し続けることを怖れてはならないと思います。家を守る=姓を守る このことに固執し過ぎると、うまくいっていた家族がギクシャクする事が多くなってきます。大切なのは、人との繋がりを守ることです。もはや姓に固執する時代ではなくなっているように思います。最近長仙寺の墓地に、○○家と墓標に記さない墓があります。これは家族の形に寛容になってきた証しです。ここはひとつ、文殊菩薩さんの意見を聞きたいところです。
 

病者は文殊菩薩の化身
 

 もうひとつ文殊菩薩の登場する経典に文殊師利般涅槃経(もんじゅしりはつねはんぎょう)というお経があります。このお経の中では、病者貧者は文殊菩薩の化身であると説きます。私はこれを維摩経と関連付けて読み解きます。つまり、無一文になったり、病気で何も出来なくなって、今まで執着していたことから解放されて、本当に大切な物事が見えてくるのです。そして慈悲の心があれば、死の淵に立って初めて大切なモノが見えてきて、謝罪したり感謝したり、慈しみのある言葉が出るようになります。私はそんな人にたくさん会いました。その時はまさに病気の人が文殊菩薩に見えてきます。文殊菩薩というのは、本当に大切な教えに導いてくれる人と人との出逢い、人とのつながりの象徴とも言えると思うのです。
 

 皆さんのそばに病で苦しむ人がいたら、その人たちは文殊菩薩の化身と思って接して差し上げてください。きっと私たちに何か大切なつながりや気づきを与えてくれるはずです。